玉砕の島で力尽きた父 70年後、娘が知った戦死の詳細

西日本新聞 筑豊版

モノが語る戦争 嘉麻市碓井平和祈念館から(4)

 ひげ面の海軍兵が赤ん坊を抱くように人形と納まった写真は、1940(昭和15)年、伍長室の机にいる金光九三郎伍長=旧嘉穂町(嘉麻市)出身=の肖像である。裏には、3年前に生まれたまな娘の京人形が届いたことと、「こんな形で良子を抱き上げる日が何日の日か来る事だろうと其(そ)の日を雲をつかむ様な気持ちで待って居ます 一五・三・二七 陣中にて」と記されている。留守の家族に送ったものであろう。

 写真が趣味の金光が残したアルバムの中に収められていた1枚だ。41年12月、日本は米国との全面戦争に突入し、金光は南太平洋のギルバート諸島(現キリバス)の作戦に従軍し、翌42年8月に戦死した。

 それから70年近くが経過した2011(平成23)年、娘の良子さんは米CNNのテレビ番組制作をきっかけに思いがけず父の戦死の詳細を知ることになった。真珠湾奇襲攻撃の反撃に転じた米軍が、潜水艦による接岸上陸の試験的な作戦として襲撃したのが、金光が守備隊長を務めていたマキン島(ブタリタリ島)であった。この戦いを含むタラワ・マキンの戦闘が激戦であったことから番組が作られたのだった。

 金光守備隊は、戦勝祝いの酒宴を開いた夜の未明に奇襲を受けた。米軍上陸は島民から軍属を通して知らされ、泥酔状態の守備隊は慌てて戦闘態勢に入った。通信班の電信記録を元に第一報の3時15分から金光の最後の伝令を受け撤収する9時5分までの詳細が、4日後に戦闘現場を検証した谷浦英男海軍少佐(終戦時)の著書「タラワ、マキンの戦い」に残される。

 著書には、先頭を切って敵陣直前まで迫り力尽きた金光の最期の状況が記されている。米海兵隊は降伏状を残し、即日撤退している。翌年、タラワ、マキンは再び襲撃され海軍陸戦隊は玉砕した。

 マキン島民と旧日本軍の関係は良好だったようで、戦後も交流が続き、島民による慰霊祭も営まれている。息子に「カネミツ」の名をつけた島民もいる。サンゴ礁の美しい島である。

(嘉麻市碓井平和祈念館学芸員 青山英子)

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 嘉麻市碓井平和祈念館が収蔵する戦争資料を学芸員の青山英子さんが紹介します。

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