「口出しできなくなった」 地元住民、遺跡から離れる関心

西日本新聞 社会面 古賀 英毅

吉野ケ里インパクト ~史跡指定30年(4)

 「みんなでいろいろやってお客が来て、地域が良くなると期待したんですけどね」。佐賀県の吉野ケ里町商工会前会長、宮原荘治(81)は悔しがる。多額の整備・維持費を国に委ねたことで、吉野ケ里遺跡と地域との関係は、大きく変わった。

 もともとは町外れの畑。冬は狩猟の銃声が響いていた。1989年2月の報道を機に、修学旅行や観光客のバスが連なった。ガイドなどを30年以上続ける国営吉野ケ里歴史公園の職員、福田幸夫(58)は「5月の連休には渋滞ができ、とんでもないことになった」と思い起こす。

 続々と押し掛ける見学者に対応するため、遺跡がある神埼町(現神埼市)と三田川町(同吉野ケ里町)の商工会が中心となり「吉野ケ里遺跡保存協力会」を発足。同年秋から活動を始める。福田はそのメンバーだった。佐賀県文化課の係長だった納富敏雄(68)は当時の商工会幹部が「知名度が低い佐賀にこんなに人が来るなら、おもてなしを」と張り切っていた姿を覚えている。

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 協力会は遺跡の外れにプレハブを建て土産品を売り、駐車場を管理した。

 「調査」は地元教委が、「観光」は民間が協力。地域は主役の一端を担った。

 新潟大教授の澤村明は論文「遺跡保存と地域経済」(2008年)において、1989~94年度の6カ年にわたる遺跡の経済効果、いわゆる「吉野ケ里効果」について地元紙が示した74億円について分析。観光統計などから報道以上の効果があったと指摘している。

 国営公園の話は89年から出ていたが、正式に閣議決定されたのは92年10月27日。「地域の期待はますます膨らんでいった」と納富は言う。

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 しかし、その思いは裏切られることになる。

 国営公園の運営は建設省(当時)の外郭団体「公園緑地管理財団」(現公園財団)と決まっていた。地域との協議の場は設けられているものの、地元が優先されることはなかった。あくまで運営は「国」。「商売や雇用は地元には死活問題だが、国営部分は治外法権。口出しできなくなった」と福田は言う。

 引き継がれる予定だった福田たちのガイドも2001年の開園直前、「不要」と方針が転換された。福田の仲間だった20人のうち15人が公園を去った。県が運営主体の三内丸山遺跡(青森市)が、当初から地元の民間団体にガイドを委ねているのとは対照的だ。

 06年に2町村合併で「吉野ケ里町」が誕生。皮肉なことに、この頃、住民の関心は遺跡から離れてしまっていた。小さな変化は12年。同町商工会有志が関わる「軽トラ市」の会場が公園駐車場になったこと。しかし、それも月1回。公園運営の職員98人のうち地元住民は35人にすぎない。

 福田も「保存には国営化しかなかっただろう」と認める。だが今、整えられた「舞台」に上がっている住民は少ない。地元の複雑な思いは、今なお未消化のまま残る。 (敬称略)

(古賀英毅)

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