被爆の長崎映す「戦災絵はがき」 12枚の写真が語るもの

写真は語る 12枚に込められた思い(1)

 「原子被爆地をカメラに 写真、絵葉書として永久に記録」

 長崎平和推進協会の写真資料調査部会に所属する堀田(ほりた)武弘さん(78)は2年前、部会活動の資料収集で、めくっていた1945年11月23日付の地元紙記事の見出しが目に留まった。

 わずか9行の記事が伝えるのは、廃虚となった被爆後の長崎市内を撮った12枚組の写真の存在だ。「原子爆弾の戦災跡を永久に記録」するため、長崎市が「林主事」という職員を中心に市街地を撮影し、絵はがきにすると報じていた。

 「戦災記録絵はがき」と呼ばれ、戦後まもなく流通したらしい。堀田さんも約20年前に古書店で偶然入手。確かに外袋には「長崎市役所発行」と刷られるが、発行の事実を記した公文書はいまだ見つかってない。長崎原爆資料館も詳細は把握していない。

 当時の記事で、発行の事実にはほぼたどり着いた。しかし、被爆間もない街を写す12枚の写真が語るのは何なのか―。

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 当時は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、原爆の実態を伝える報道や言論を検閲するプレスコードが厳しかった。同時期に長崎で記録映画を撮っていた日本映画社の取材班は進駐軍に撮影を止められ、東京への帰還を命じられた。その中で、林主事たちは撮影を認められたことになる。

 その疑問を解くと考えられるのが写真の説明文だ。12枚いずれも、日本語と英語の両方で説明文が付く。被爆から1年後の46年8月27日付の地元紙記事には、絵はがきが「占領軍関係」に贈られ、残りが市販されると記されていた。

 「進駐軍兵士らは写真の絵はがきを手に帰国し、故郷で原爆の威力を土産話として語ったのでは」と堀田さんは推測する。12枚ともがれきの街が写されるが、被爆者の遺体は一切ない。長崎市が事前にGHQなどの許可を受け、撮影された可能性は十分あり得る。

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 12枚の中には、45年11月に浦上天主堂であった慰霊祭や、城山国民学校など爆心地近くはもちろん、市公会堂や福済寺などやや離れた地点の写真があるのも特徴だ。「市全体が受けた原爆被害の総体を伝えようとしたのだろう」と調査部会の松田斉(せい)部会長(64)。

 写真付きのはがきという手段に着目するのは原爆資料館の奥野正太郎学芸員(34)だ。「被爆の記録とともに、この惨事を多くの人々と共有したいとの思いもあったのでは」。インターネットもない時代、写真付きはがきを介し、被爆地の様子を全国に伝えたかったのかもしれない。

 堀田さんも75年前、爆心地から3・3キロで被爆。当時の記憶はないが、若い頃はテレビ局のカメラマンとして原爆報道に携わり、退職後はボランティアとして市の平和行政を支える。当時を伝えようとした「林主事」が人ごとに思えない。

 「プレスコードの制限の中、最大限、被爆の実相を伝えようとした彼らの思いを写真から知ってほしい」

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 堀田さんから借りた、はがきになった写真の撮影場所を連載でたどる。その構成や当時を知る関係者の話から被爆前後の社会状況や長崎の街の様子を捉え、平和を見つめ直す。
 (この連載は野村大輔が担当します)

※記事・写真は2020年02月01日時点のものです

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