「死んではなりません」2万人戦死の硫黄島でまかれた、投降誘うビラ

西日本新聞 筑豊版

モノが語る戦争 嘉麻市碓井平和祈念館から(9)

 所々が破れ黄変したB5判ほどの紙面に、端正な文字で日本兵に投降を促す文章が刻まれている。

 「君たちが圧倒的な米軍と優秀な兵器に対して愚かな抵抗をしている時に故郷の人たちは君たちの身の上をどんなに心配しているかわかりません。(中略)戦死の報を受けた時の君たちの年老いた父母やかわいい妻子はどんなに嘆く事でしょう。(中略)関東大震災の際に君たち同胞に温情を差し伸ばした同じ米国人です。米軍の方に来なさい。そしてわれわれと一緒に食物を食べ冷たい水を分けあって飲みましょう。生命は尊いものです。今死んではなりません」

 アジア太平洋戦争末期の1945年に日米両軍が戦史に残る激戦を繰り広げ、2万人余りの日本兵のほとんどが戦死した硫黄島(東京都小笠原村)の伝単である。

 航空機が戦闘に本格的に導入された第2次世界大戦では、空中から投下されるものは爆弾だけではなかった。敵の戦意喪失とかく乱を図る宣伝ビラ「伝単」も空からまかれたのである。硫黄島の伝単には、当時の日本兵が受けた教育や心情が研究されたかのような文面が並び、裏面には楚々(そそ)とした観音像が印刷されている。雨の少ない火山の島に年月を経ても残っていた。

 伝単を持ち帰ったのは、硫黄島戦で夫を亡くした旧碓井町(現嘉麻市)の伊藤政子である。硫黄島は戦後米国の統治下におかれ、踏み入ることが困難な外国となった。日本に返還されたのは68年。伊藤が島を訪れたのは戦後30年を経た75年、生存者と遺族たちが作る硫黄島協会の遺骨収集に参加してのことだった。「摺鉢(すりばち)山がぽっかり浮び出し寂しい姿に感じられ、西の方は紺碧(こんぺき)の海が広々と続いて何一つ見えないし不気味な波のうねりの音が腹の底まで響き渡りました」。到底逃れることはできない島であったと、降り立った日の感慨を手記に残した。

 遺骨収集は現在も続けられ、高齢になった遺児たちも参加している。収容された遺骨の数は、いまだ半数にも満たない。

(嘉麻市碓井平和祈念館学芸員 青山英子)

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 嘉麻市碓井平和祈念館が収蔵する戦争資料を学芸員の青山英子さんが紹介します。

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