平野啓一郎 「本心」 連載第252回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 僕は、「三好さんなら大丈夫です。」と、咄嗟(とっさ)に言いかけて、その言葉を呑(の)み込んだ。

 僕が勝手に言えることではなかった。それに、なぜそう思うのかという自分の判断には、酷(ひど)く下劣なものがあった。

 心の裡(うち)に生ずる醜悪なものを、余さず言葉にすることには、何か良い意味があるだろうか。――僕がこの時、咄嗟に考えたのは、三好がその人間性から、彼の障害を理解し、排泄(はいせつ)の手助けも厭(いと)わないだろう、ということではなかった。僕は、彼女が以前、セックスワーカーとして働いていた事実を、なぜか引っ張り出してきたのだった。その経験のために、彼女は、普通の人より、人間の下半身に触れるようなケアに、拒絶感が少ないのではないか、と。そして、僕はその発想の卑しさに、心底、惨めな気持ちになった。

 僕はこれまで、彼女の過去を蔑(さげす)んだことは一度もない。他方で、イフィーのことも、見下すような気持ちは更々(さらさら)なかった。しかし、二人を結びつける条件として、こんなことに思いが至るというのは、結局のところ、自分の中に、何かそうした差別的な感情が秘せられているのではないかという疑いを禁じ得なかった。

 そして、僕はやはり、三好の愛にも、イフィーの友情にも、値しない人間ではないかと感じた。

「勿論(もちろん)、僕で役に立てることは、業務の範囲内で何でもしますが、いざとなった時のために、やっぱり、事前に起こり得る事態を聞いておいた方がいいと思います。教えてください。――三好さんに関しては、とにかく、イフィーさんの気持ちを伝えてみた方が良いと思います。」

 イフィーは、「……そうですね。」と頷(うなず)くと、瞳の焦点が、自分の心の内側に滑り落ちてゆくような曖昧な目をして、冷めかけたコーヒーに口をつけた。

 三好は三好で、単純ではない人であり、実際は、イフィーの愛を拒否することもあり得るかもしれない。そうなると、どうなるのだろうかと、僕は彼の不安げな、辛うじてそのかたちを保っているような表情を盗み見ながら考えた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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