なぜ?第21航空廠の従事者数、食い違う数

西日本新聞 長崎・佐世保版 山本 敦文

軍都の幻影 元航空廠設計士の遺言(2)

 海軍技術大尉の外套(がいとう)、航空機の性能を細かく記録したノート、ガスマスク、ゲートル、鉄かぶと…ガラスケースに展示された品々が軍都の歴史を物語る。

 大村市本町、商店街の一角にある交流施設「プラットおおむら」5階の「近代資料室」。市教育委員会が昨年4月に開設した。戦時中に同市放虎原の一帯にあった軍需工場「第21海軍航空廠(しょう)」の設計士、神近義光さん=昨年11月、94歳で死去=が寄贈した資料約200点が収められている。

 複数の関係者によると、近代資料室の開設は神近さんの悲願だった。航空廠OBでつくる慰霊塔奉賛会の会長だった神近さんの元には、遺族などから多くの遺品が寄せられていた。神近さんの意向を受け、市議や元自衛官らが市教委に設置を働き掛けたという。

 資料室では、神近さん以外の市民からも寄せられた旧陸海軍などの資料も展示。第21航空廠を紹介するパネルでは、従事した人の数をこう説明している。

 「資料によって違いはありますが、1944年11月の工員と学徒数は約2万9千人でした」

 おや、と思った。慰霊塔がある公園や、神近さんが国に直談判して保存が決まったとの逸話がある市指定史跡の地下式防空壕(ごう)跡に設置した説明板では「工員5万人」と断定しているからだ。この数字の食い違いは何なのか―。

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 戦時中にあった多くの軍事施設がそうだが、第21航空廠は正確な従業員数を示す当時の名簿などの1次資料が残っていない。空襲で焼失したり、戦後に米軍が進駐する前に処分したりしているためだ。

 県立図書館で航空廠関連の書籍をたどった。1972年発行の『第二十一海軍航空廠沿革史』では、航空廠総務部の元職員が「4万人近く」と振り返っている。私が「5万人」を最初に確認できたのは、99年に大村市が発行した資料集『放虎原は語る』。編集委員の神近さんが部署ごとの人数を挙げて記していた。出典は明らかにしていない。

 やがて「5万人」は第21航空廠を象徴する数として広まり、本紙の記事にもたびたび登場する。その数に、航空廠の巨大さを強調しようとの意図はなかったのか。2016年発行『大村市史』は神近さんの記述を紹介しつつ、当時の市の人口動態と比較し「数字の間違いを指摘するケースも散見される」と書き添えている。

 近代資料室の「2万9千人」は、終戦後に米軍調査団がまとめた報告書から引いたという。ただ、工員や学徒以外の職員も「多数働いていた」とぼかす。

 「いずれにしろ、正確な数は分からないんです」。職員は困惑した表情を浮かべた。

※記事・写真は2020年02月24日時点のものです

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