「たくさんの人間が死んだ」軍需工場の歴史伝えた男性…執念の源は

西日本新聞 長崎・佐世保版 山本 敦文

軍都の幻影 元航空廠設計士の遺言(5)

 太平洋戦争の開戦直前から終戦までの4年間、大村市に存在した航空機製造の軍需工場「第21海軍航空廠(しょう)」。その歴史を後世に伝えようとした航空廠の慰霊塔奉賛会会長、神近義光さん=昨年11月に94歳で死去=の、執念ともいえる熱意の源は何だったのか。

 行政を相手に遺構の保存や資料室の設置、慰霊祭の存続などを訴え、実現させた。市議や市職員に「歴史をもっと勉強しないと駄目だ」と声を荒らげることもあった。信奉者も多かった。神近さんの熱意がなければ、大村市誕生のきっかけとなった航空廠の記憶は市民の間でも薄れていたのかもしれない。

 大村市史近代編の巻末には、終戦時に6~28歳だった市民23人の「戦争体験記録」が収められている。2013年に聞き取ったもので、神近さんも航空廠での日々を語っている。

 それによると、航空廠の職種で、神近さんら設計士は「一番上級」。一般家庭は生活品が不足していたが「(廠内では)何でも手に入ったので、不自由のない生活をしていた」。当時10代後半だった神近さんは、強い誇りを抱いたに違いない。

 その航空廠が壊滅し、272人が犠牲になった大村大空襲をこう振り返った。「技術者としての誇りを持ち、東洋一の大航空廠で世界に誇る飛行機の製造に携わった者の一人として90年近く生きてきたが、(空襲)当日のことは今でも時々夢に見るほど忘れることができない。あの衝撃はうまく言葉にできない」

 戦時中の体験は、後世に伝えようとした軍都の姿にも少なからず影響したのだと思う。

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 昨年7月、諫早商業高の生徒会のメンバーが平和研修のため神近さん宅を訪れた。同高は戦時中「航空工業学校」となり、150人が第21海軍航空廠に動員されたとの記録がある。

 空襲犠牲者の慰霊を続ける理由を尋ねた生徒に対し、神近さんは「たくさんの人間が死んだんだ。当たり前じゃないか」と語気を強めた。その上で、互いを気遣い、思いやる大切さを繰り返し説いた。

 「戦争を起こすのは人間。私たちが人間性を磨いて、平和な世の中を守ってほしいと伝えたいのだと思いました」。生前の神近さんが若者に直接語った最後のメッセージを、生徒たちはそう解釈した。

 命の危険にさらされるような日常を送った戦争体験者と、その後の世代の間には「壁」がある。神近さんは自身の信念に基づいて、その「壁」を超えようとしたのだろう。

 戦後75年。体験者が伝えようとしたものを、次の世代がどう受け止めていくかが問われている。 =おわり
 (山本敦文が担当しました)

 

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