平野啓一郎 「本心」 連載第254回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

「お父さんはエンジニアだったんですけど、過労で鬱病(うつびょう)になってしまって、お母さんも、わたしのことまでは気が回らなくなりました。……はい。……なんか、そんな感じで。」

「そうですか。……大変でしたね。」

「わたしも、授業がわからなくなっても、お父さんとかお母さんに心配かけたくなかったので、言いませんでした。ミャンマー語もあんまり話せないので、説明できませんでしたし、……お父さんもお母さんも、日本語があまりできないから、わたしが授業がわからないのも、気がつきませんでした。」

「今、話をしてて、日本語が不自由な感じはしないですけど、わからないっていうのは、--聴き取れないっていうことなんですか? 早く喋(しゃべ)られたりすると? それとも、意味がよく理解できないっていう感じなんですか?」

「はい。」

「え、……あ、どっちですか? 両方?」

「ああ、えっと、そうですね、……そんな感じです。すみません。」

「あ、いえ、……」 

 ティリは、戸惑うような、恥じ入るような表情で、また少し微笑した。

 僕は、ティリと四十分ほど会話をしたが、長くなるほどに、最初の印象とは異なり、彼女の日本語の不十分さを感じた。それは、なかなか気づき難(にく)いことだった。

 一つには、彼女の日本語に、外国人らしいアクセントがまったくないせいだった。ミャンマー語をうまく話せないのだから、当然なのかもしれない。もし、彼女のメッセージを読むことなく、彼女が自分から言い出しもしなかったなら、僕は、その日本語自体の理解の不足に、気がつかなかったかもしれない。

 彼女のこれまでの境遇の説明は、そのあとのやりとりに比べると、まだしも要領を得ていて、それは多分、同じような質問を人生の至るところでされて、何度となく、繰り返してきたからだろう。

 しかし、そこから足を踏み出すと、僕の言葉に対する集中力が見る見る失われていって、当惑したように瞳が震えた。何かのかたちを作ろうとしても、最初から手持ちのブロックが少なすぎて、途方に暮れている子供のような感じがした。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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