普賢岳6・3火砕流から29年…「手探りだった」医師が語る最前線

西日本新聞 くらし面 長谷川 彰

 43人が帰らぬ人となった雲仙・普賢岳(長崎県島原市)の1991年火砕流災害から、また節目の日、6・3を迎える。当時、救急医療の最前線となった県立島原温泉病院(現在は県島原病院)のスタッフだった徳永能治(よしはる)医師は「模範事例もなく備え、最善の道を考えた、今で言うトリアージに徹した現場だった」と振り返る。

前年末に対応方針

 普賢岳が198年ぶりに噴煙を上げたのは、90年11月17日。同病院が万一に備え対応方針をまとめたのは12月19日だったという。

 徳永医師によれば「参考にできる火山災害の事例を探したが、見当たらず、手探りだった」。何らかの危機的状況が出てきたら警戒宣言が出ると考え、その時点で対策本部を設け、緊急動員、救急患者を除く外来診療の中止、電源や水、食料の確保に努めることなどを確認。避難勧告が出た段階で入院患者を安全に避難させられるよう、12班態勢で役割を決めた。

 翌91年2月、新たな噴火口で活動が始まり、県の災害警戒本部が再設置されるなどしたのを機に避難訓練も行った。県と協議し、入院患者の搬送には救急車ではなく、県営バスの車内を畳敷きに改造して用いる準備もしたという。

 ただし、想定していたのは「島原大変肥後迷惑」と言われた198年前の眉山崩壊の再発。被災者の救護対策も土砂災害が念頭に置かれ、熱傷への対応まで意識するようになったのは、小規模の火砕流が起きて以後、5月26日に治山工事中の作業員が軽傷を負った段階だったという。

最前線が担う役割

 事態が急変した6月3日午後4時過ぎ、火砕流に巻き込まれた人が次々にやって来た。当初は自力で歩ける軽傷者ら、やがて全身が焼けただれた重傷者たち。

 玄関ホールで挿管を行い呼吸を確保しつつ、体を水や氷で冷やし、点滴。呼吸が厳しい人は5室ほどの手術室に順次搬入して気管切開を行い、5月31日の段階で隣接の講堂に畳30枚を敷いて用意していた臨時救護所で、患者1人にスタッフ8人がかりで対処。ただちに、高次医療を担う市外の病院に送り出した。

 結果的に17人を受け入れたが、「あの時はまだ被害の全容が分からず、さらに次々と重傷者がやって来る事態もあり得た」(徳永医師)ため、後方支援の病院に搬送できる容体を保つ治療に専念したという。

 最前線の拠点であり、患者を抱え込み過ぎて対応が後手に回っては元も子もない。搬送に耐え得るかどうか症状の見極めが重要だった。「今なら当たり前のトリアージですが、その頃、そうした概念はまだ浸透していなかった」。事前の備えに加え、熱傷の処置にも通じた整形外科医で、現場の総指揮に当たった当時の常岡武久副院長の冷静な判断も大きかったと、徳永医師は振り返る。

偶然の重なり奏功

 この緊急時に、いくつか偶然の重なりが奏功した面もあったという。

 「午後4時過ぎ」は、日勤の看護師がまだ残っていて、夜勤者が出勤してくる時間帯。6月1日付の人事異動で新しく仲間入りしたスタッフが顔合わせで集まっていた。だから、市内は交通渋滞が起きて移動も容易ではなかったが、緊急呼び出しをしなくても人員がそろった。手術の予定も入っておらず、結果的に総員約160人で17人の対応に当たることができた。

 最終的には、そのうち12人が命を落とすことになりはしたが、「手探りながらも、状況を見極めつつ準備を進めていたことで、当初は想定していなかった多数の熱傷患者の集中的な受け入れという事態にも、でき得る限りの役割を果たせたのではないか」と話す。

 徳永医師は今も、火山災害が多い南米の国々などの医療・行政担当者に対する研修に携わっている。今年2月に神戸市で開かれた日本災害医学会でも講演し、若い医療関係者らに、そうした経験を伝えた。6・3の教訓は今も生かされ続けている。 (特別編集委員・長谷川彰)

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