地の果てから(1) <出会い>美しい山…悲惨な病人【中村哲医師寄稿】

<1987年9~10月に本紙夕刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「地の果てから パキスタン北西辺境の人々」(全17回)>

ハンセン病根絶へ

 一九八四年五月二十八日、 私はパキスタンのイスラマバード空港に降りたった。日本基督教海外医療協力会(JOCS)より派遣され、パキスタン北西辺境州のペシャワールで医療協力を行うためである。私の任務は、主としてこの北西辺境州政府のハンセン病根絶計画に民間側から強力な援護射撃をすることにあった。

機内から降りると、吹きつけてくる乾いた熱風がたまらなく懐かしく感ぜられた。実はこれは私の六度目のパキスタン訪問であった。

 最初にやってきたのは一九七八年、福岡登高会(新貝勲会長)のティリチ・ミール遠征隊に参加してからで、その時感ずるところあって北西部の山間部に興味を抱き、ほぼ毎年のようにこの地を歩き回っていた。

 北西辺境州はパキスタンの西北端に位置し、西のスレイマン山脈と東のインダス川との間を自然国境としている。民族、言語ともに事実上アフガニスタンの連続であるが、英国植民地時代に英領インドの一州に編入されたものである。一九四七年の分離独立でパキスタンの行政下に入ったが、今なお現地民であるパシュトゥン部族は隣国アフガニスタンとのきずなを捨てず、国境を無視して自由に往来している。

生活水準は低く…

 ヒンズークッシュ山脈はこの北西辺境州北部からアフガニスタンのど真ん中を南西につきぬけてパミール山系の西翼をなしている。その最高峰がティリチ・ミール(七、七〇八メートル)である。この山に私の忘れ難い思い出がある。

 一九七八年六月、私を伴う遠征隊はチトラールから南バルム氷河に入り南壁に挑もうとしていた。ベースキャンプまでのキャラバンの途中、私は観光省から住民の診療拒否をしないように申しわたされていたので、村々で病人たちを診ながらキャラバンを続けていた。

 住民の生活水準は恐るべき状態であった。病人がかなリ重症でも、ゆきずりの旅人たる私にはどうしようもなく、処方箋(せん)を渡したとてそれを彼らがまともに入手できるとは思えない。まず登頂が本来の目的であるから、貴重な薬品は隊員のためにとっておかねばならぬ。結局子供だましのような錠剤を与え、診療するふりをして住民の協力を得ざるをえなかった。

“日本流”は不可能

 ある時、咳(せき)と喀血(かっけつ)を訴えて連れてこられた青年がいた。父親が治療を懇願した。明らかに進行した結核で、放置すれば長くはないと思われたので、町に下りて検査をうけ、きちんとした治療をうけるよう申しわたした。ところが答えて曰(いわ)く「町でまともな治療がうけられるならあなたの所には来ない。第一、チトラールやペシャワールに下るバス代がやっとで、病院で処方箋だけもらって、どうしろというのか」。

 慣れというものは恐ろしい。日本で我々が享受している医療がいかに高価でぜいたくなものであるか、保険診療に慣れている我々には理解を超えるものがあった。山岳部の住民は自給自足で、現金収入は極端に少ない。現金生活者でさえ、月収は平均六百-千ルピー(五千-九千円)であるから、まず日本流の診療は不可能と言ってよい。

道すがらに病人…

 これは一つの衝撃であった。しかも病人は彼だけでない。道すがら、失明したトラコーマの老婆や一目でハンセン病とわかる村民に「待って下さい」と追いすがられながらも見捨てざるを得なかった。これは私の中で大きな傷となって、キャラバンの楽しさも重い気持ちで半減してしまった。休暇の都合で一足先にベースキャンプを下り単独で帰途についたが、村々で歓待されると割りきれぬ重い気持ちはますます増幅した。

 目を射る純白のティリチ・ミールは神々しく輝いている。荒涼たる岩石砂漠に点在する緑のオアシスの村々は、さながら自然にひれふして寄生する人間の鳥観図である。私は山と対話する。我々は地表を這(は)う虫けらだ。いかなる人間の営みもあなたの前では無に等しい。逆らえぬ摂理というものがあれば、喜んで私は何かの義理を果たしましょう……そうつぶやいた。

不条理に対する復讐

 それは良心のうしろめたさから解放されたいという自分の都合や感傷であったのかもしれない。また村人の方でもそう深刻に考えず、あきらめの方が強かったであろう。しかし、一時の熱ならさめもしようと割りきって山を下りた。

 その後の不思議な縁の連続は、五年後にこの北西辺境に、いわばこの時の啓示によって私を呼びもどしたようである。当地への赴任は私のこの時の衝撃の一つの帰結でもあった。同時に、このような、あまりの不平等という不条理に対する復讐(ふくしゅう)でもあった。

筆者紹介

なかむら・てつ 昭和21年福岡市生まれ。福岡高を経て48年九州大医学部卒。国立肥前療養所、大牟田労災病院などに勤務したあと、パキスタンでの医療活動を志し、リバプールの熱帯医学校に留学、59年5月、ペシャワール・ミッション・ホスピタルに家族を伴って赴任。ハンセン病治療を中心にすでに四年間、現地で活動している。現在七歳、三歳、零歳の三人の子供がいるが「少なくとも長女が小学生でいる間は現地にとどまりたい」と言う。

ペシャワール会 問田直幹会長。中村さんの医療活動を支援する会。福岡市中央区大名1-12-8、福岡YMCAに事務局を置き、会報の発行、ガレージセールや映画会などの活動で、中村さんへの支援を通じて「アジアとかかわる」ことを目的としている。薬品やジープを送る活動も。


 

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