今につながる島原の乱

西日本新聞 オピニオン面 上別府 保慶

 戦国時代に来日した宣教師のザビエルは、山口と鹿児島の若者2人を欧州へ留学させるためにポルトガルの同僚に手紙を書いた。

 ザビエルは日本人を「賢く思慮がある」と褒めながらも、侍については「とても好戦的」で欧州から軍艦が来たら「武器や品物を奪うために皆殺しにするだろう」とまで警告している。

 江戸時代に太平が訪れるまで、戦国の侍は殺伐とした空気の中を生きた。その政治にも、庶民の暮らしを守る発想は乏しかった。

 治安を守る司法機関は鎌倉幕府や室町幕府の頃もあった。だが「獄前の死人、訴えなくば検断せず」の言葉が残る通り、たとえ獄舎の前に死体が転がっていようと、力ある者の訴えがなければ捜査はされなかった。時代劇で、事件を聞いた同心が現場へ駆けだすのは江戸の世になっての話だ。

 そんな侍の在り方を変えることになったのが1637年の島原の乱。島原藩主と、天草を領有する唐津藩主の虐政によって起きた。いずれの地も元はキリシタン大名の領地だったが、重い年貢と信仰へのむごい弾圧が領民を怒らせ、約3万7千人が原城(長崎県南島原市)に立てこもった。

 その数は福岡市のペイペイドームがプロ野球を開催する時の収容能力(約4万人)に迫る多さだった。

 徳川幕府は諸藩に命じて12万余の討伐軍を送った。一揆の民衆の抵抗はすさまじかったが、女性や幼子まで皆殺しにされ、島原と天草は無人同然の地になった。幕府軍も1割の1万2千人が死傷。当時の侍の人口は足軽を含めても150万人とされ、歴史家の磯田道史氏は「全国の侍は身内の中の誰かが痛手を受けた計算になる」と語る。

 何よりも途方もない虐殺は、年貢の納め手を失っては領国経営どころではないという教訓を、武士階級の骨身に染み入らせた。

 そこで出たのが将軍の徳川綱吉による生類憐(しょうるいあわれ)みの令だ。時代劇では、お犬様をうっかり傷つけた職人や町娘が処罰される悪法の印象が強い。だが昨今の歴史本は、島原の乱に驚いた幕府が人命を軽視する戦国の気風を改めるために出したものであり、武による民の支配から、文による統治への転換点になったと説く。

 綱吉は武家諸法度も改め、武道を最優先する内容から民に配慮する儒教重視へと変えた。山本周五郎、藤沢周平、葉室麟の各氏が書く小説に、藩政と領民との間でどう生きるかに悩む侍が登場するのは、江戸時代の空気の変化を反映する。

 近代の日本に、民主を求める動きが高まっていった歴史の河をさかのぼると、島原の乱に行き着く。検察人事を巡る政府の傍若無人に世論が待ったをかけた今も、その流れにつながっている。 (特別編集委員・上別府保慶)

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