地の果てから(5) <復讐>辺境住民の中世的な心情【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

<1987年9~10月に本紙夕刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「地の果てから パキスタン北西辺境の人々」(全17回)>

執拗かつ陰険

 バダル(復讐)の習慣は辺境に根強く、我々が仕事の上で手をやくものの一つである。復讐はパターン部族の伝統的な掟でもあり、さしずめ「仇討ち」と考えてもよい。時には、村ぐるみ部族ぐるみの抗争となり、小さな戦争にさえ発展する。

 大きく治安を乱さぬ限りは、警察当局も介入しない。ペシャワールで発生する殺人傷害事件のほとんどは、政治抗争でなければ、この復讐によるものである。この習慣は根強く、相当教育をうけたはずの「市民化した」人々の中でさえしみついている。辺境住民はおおらかで明るいという印象は一般的に正しいが、いったんドシュマン(敵)となればこれに対する行動は執拗かつ陰険となり、あらゆる手段と努力が投入される。場合によってはちゅうちょなく射殺する。

強制退院直後に死亡

 私が赴任後二年目のことであった。夏季の休暇を利用して研修のために三カ月ほど病院を留守にした直後のことである。帰ってみるとどうも病棟の様子がおかしい。何となくみんなの表情がかたい。聞けば患者四人が正当な理由もなく強制退院させられたのだという。理由は退屈しのぎに無断でバザールを散歩しただけであったが、ふだん無秩序に見える患者の入退院を、病院当局がみせしめを作って管理を強めようとしたのは明らかであった。

 この退院させられた四人の患者はすべてアフガン難民で、パキスタン北西辺境で我々以上に外国人と思われるパンジャブ人の病院当局者としては、パターン部族民やアフガン人はトラブルの元という認識が常に背景にあった。悪いことに、退院させられた者のうち二人が退院直後に死亡、一人は急性の消化性潰瘍(かいよう)による吐血、もう一人は虫垂炎の診断で手術後死亡したものである。

被害者意識の塊

 死亡そのものは、あのような医療事情では入院中であっても起こり得るし、強制退院との因果関係は必ずしも明らかではなかった。しかし、ふだん大なり小なり社会的偏見の下で暮らしてきた患者たちはそうは考えない。被害者意識の塊になっていた。とくに、死亡した患者の一人はムジャヘディーン(イスラムの敵と闘う戦士)の一指揮官として尊敬を集めていた人物である。しかも、長い入院生活で患者たちも闘争心のはけ口がなく、皆が何かを待望しているような、一触即発の空気を感じた。

 実はこの一年前にも院長が院内で狙撃されたことがある。この時は傍らにいた者が足に被弾した。犯人はわからなかったが、一部にはハンセン病棟が背後にあるなどという臆測さえあった。第三者の話によると、「温情主義の傾向が患者をつけあがらせているという批判が病院当局にある」という。実際、赴任当時から院内でハンセン病棟のみが半独立状態で私としても両者の間で調停役としてもまれ通しであった。

患者が圧力団体化

 ともあれ、不穏な動きを感知した私は、この頃から毎晩のように重症者の見回りを理由に病棟を訪れた。それも夜間ぬきうち的に訪れて事のなりゆきを確かめようと努めた。

 ある晩、案じた通りにペルシャ語を話すグループが病棟の一角に集まって深刻な表情で何事かを討議していた。おだやかな話ではなかったので、私は中に押し入り、「復讐は許さん。不祥事を生ずれば私は出てゆく」と怒鳴りあげた。普通はめったに大声を出さないので、そこにいた五人の患者は仰天したが、一人一人「先生のために今後は騒ぎをおこさない」と誓った。

 これ以後「抗議行動」は停止した。しかし、患者が圧力団体化する傾向は常に見られた。それも復讐という慣習法の正当な行使と取られ得る管理のやり方は、恐ろしい結末を招くことを改めて知った。

仕事の妨害因子

 ペシャワールに関する限り、下心のないまごころが結局この復讐を回避する最強の武器なのである。特に追いつめられた弱い立場にある者は、人の誠意を敏感にかぎとるものである。これは世界中変わらぬ人情である。

 しかし、患者や多くのスタッフたちは、今度は私の名誉にかけて復讐を控えているのである。対立は一層複雑で根深くなった。辺境住民の中世的な精神構造は、次第に私に対する忠誠心で結びつくようになり、彼らの義侠心は私にとって大きな負担となった。

 私が患者の信頼を得れば得るほど(元来は喜ぶべきことであるのに)、病院当局としては面白くない「温情主義」と映る。下司のかんぐりをする者には「人気取りをして扇動しようとしている」などと心外な受けとり方をする。復讐はあらゆる意味で常に仕事の妨害因子となった。

(医師・パキスタン在住)

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