地の果てから(6) <アフガン難民>①ソ連軍侵攻で400万人流入【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

<1987年9~10月に本紙夕刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「地の果てから パキスタン北西辺境の人々」(全17回)>

アフガニスタン内乱

 パキスタン北西辺境州での活動を述べるには、どうしてもアフガン難民について語らざるを得ない。一九七九年のソ連軍介入後、難民は爆発的に増加し、一九八六年末までにパキスタン全土で四百万人に迫った。とくに北西辺境州では登録数二百五十万人を超え、実数はそれをはるかに上回るものとみられている。これはもはや一つの民族移動と言い得る。それに加えて、北西辺境州の難民の群れは一大武装勢力となって、経済的にも政治的にもただでさえ貧しいパキスタンに大変な重荷となった。

 アフガニスタンの内乱は、親ソ政権出現後次第にくすぶり始め、七九年十二月のソ連軍進駐後、大都市を除く全住民が立ちあがってジハード(聖戦)を宣言、頑強なゲリラ戦で中央政府の支配を点と線に帰した。モスクワ・オリンピックのボイコットは記憶に新しい。米ソ共に、この反政府勢力の実力を過小評価していたが、イスラム住民の宗教的情熱に裏打ちされた抵抗は根強く、戦闘は激化の一途をたどった。百万人が死亡又は行方不明となり、イラン、パキスタン、その他へ難民として逃れた者五百万人以上といわれ、アフガニスタンの人口は半減し、生産力は壊滅的な打撃をうけた。

ソ連の農村破壊戦略

 元来北西辺境州は、アフガニスタン東南部に住む同一のパターン民族の国であり、パキスタン側でも辺境住民の「越境権」を認めていたので、あふれてくる「同胞」をいかんともできなかった。さしずめ、九州の人口が突然関西方面になだれこんだ状態を想像すればよかろう。

 大量の難民発生の一因は、ソ連=アフガニスタン政府軍の徹底した農村破壊戦略にあった。既に欧米勢力がベトナム等の戦略村構想に失敗した教訓が十分生かされ、農村社会という「封建主義の温床」そのものを消滅させ、人口を都市に集中させて管理するという、現地庶民にとっては迷感千万な戦略が実行されたと思われる。ペシャワールには反政府ゲリラの各本部がおかれ、内戦指導の根拠地となった。我々もまた、否応なくこのような異常な状況下でアフガン難民のハンセン病問題に手をつけざるを得なかった。病棟には常に半数をこえるアフガン人患者がおり、しかも彼らは今さら故郷に帰ることもできず、いらだちはしばしば病院へのうっ憤となって、武装圧力団体と化す傾向がみられた。私が病院管理者と患者たちの間にたって神経をすり減らしたのはいうまでもない。

アフガン患者対策

 カラチの本部では、我々の役割の一つとしてアフガン人患者対策を命じていた。政治紛争を避けうるのは「民間の自由領域」である我々のミッション病院以外にないという判断が本部にはあったからである。従って難民キャンプの調査にしても、カラチのバングラデシュ難民程度に甘く考えていた節がある。北西辺境州に散在する二百五十カ所のキャンプは、主要幹線沿いならまだしも、国境山岳地帯に集中する場所は手がつけられず、しかもほぼ全キャンプは越境して抵抗を続ける兵員の補給基地である。男子成人のすべてがムジャヘディン(イスラム戦士)と考えてよい。悪いことに、ハンセン病の多発するのはこうした国境地帯に集中していたのである。

 本部の真意は、北西辺境州以外のハンセン病のコントロールの見通しがついてきた段階で、余勢をかってアフガニスタンに目を向け始めたことである。そのためにペシャワールの我々の病棟をその基地にするという構想を明確に持っていた。ところが、当の病院当局は、アフガン人問題に深くかかわることを恐れ、カラチの本部とは対立していた。しかし、拒否すれば病院の財政にひびくし、始めるとなれば相当の努力と犠牲を要するという板ばさみで、彼ら自身何の方針も持ってなかった。

 私としては、もちろん両者共に無視する訳にはゆかず、早期発見のキャンペーンを各難民医療機関に呼びかけることから始め、政治紛争にまきこまれぬため冒険的な試みには一切協力しなかった。本部はこのため、ペシャワールの難民救済機関と組んで、しばしばアフガニスタン内にハンセン病クリニックを設立しようとしていたが、危険を伴う上に巨額の費用を要するという批判を持っていた私は沈黙していた。私自身は小規模ながらキャンプの調査を始めており、実態をかなり正確に把握していたので慎重論をとらざるを得なかったのである。

(医師・パキスタン在住)

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