平野啓一郎 「本心」 連載第258回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 亡くなった母の思い出と、三好とイフィーとの生活が、僕を救ってくれたが、振り返るほどに、あの頃、何度となく交わした岸谷との会話は陰惨な印象を与えた。

 彼は今、どうしているのだろうか?

 

 僕はそのニュースのせいで、少しぼんやりしていた。そして、イフィーは、僕の異変に気がつき、それを、先日来、彼と交わしてきた会話の影響と勘繰ったらしかった。

 彼は、やや唐突に、慈善事業の計画は具体的に検討していると話し始め、僕に視察してほしいプロジェクトのリストを伝えた。ひとまず、一千万円の予算を考えていると言った。

 僕は彼に、ティリの話をした。彼女のように、日本語そのものの習得に問題があり、再教育が必要な人たちを支援したいと伝えると、彼も驚いて、詳しく話を聴きたがった。しかし、どちらかというと、その話自体というより、僕に対する関心を努めて維持しようとしている風だった。

 その後、彼にスーパーでの買い物と宅配物を出すことを頼まれて外出し、戻ってくると、勤務時間の終了を告げて、帰宅の準備をした。

「今日は、まっすぐ帰るんですか?」

 と、一階に降りてきたイフィーが尋ねた。

「いえ、……池袋で、三好さんと待ち合わせをしています。」

 僕は、そう言わずもがなの返事をしてしまった。イフィーは、

「そうなんですか。」

 と笑顔で頷(うなず)いたが、その眸(ひとみ)には、どことなく僕の裏切りを詰難するような色があった。僕は覚えず、

「良かったら、一緒にどうですか?」

 と誘った。イフィーは、意外そうな面持ちで、少し考える様子だったが、

「いや、今日はちょっと。」

 と首を傾(かし)げた。しかし、すぐに思い直したように、

「でも、せっかくだし、朔也(さくや)さん越しに挨拶(あいさつ)だけしようかな。」

 と言った。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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