受難と復興の陰に無名の修道士 「ヨゼフ様」原爆投下時、患者救う

西日本新聞 長崎・佐世保版 山崎 健

 「私の字です。ヨゼフ様に頼まれて揮毫(きごう)したものに間違いないようです」

 5月上旬、長崎市の浦上のカトリック信徒、深堀好敏さん(91)の声は高ぶっていた。敬愛してやまない一人の修道士との邂逅(かいこう)をかみしめる様子が、電話越しに伝わってきた。

 原爆で破壊された旧浦上天主堂のがれきとなった三つの大理石に戦後刻まれた「喜」「苦」「栄」の文字。ロザリオの祈りにちなむその文字が刻まれた石の行方が、深堀さんは長年気になっていたという。4月の取材の際に聞いた私が、その後ある場所で見つけ確認を求めて写真を郵送したところ、すぐに携帯電話に連絡をくれたのだった。

 修道名マリア・ヨゼフこと故岩永富一郎修道士。長崎大核兵器廃絶研究センター客員研究員の桐谷多恵子さん(39)は今春、浦上のキリスト教文化の存続に岩永修道士が寄与した軌跡をたどった論文「浦上の『受難』と『復興』における文化の存続」を発表し、無名の修道士に光を当てた。

 「誰もヨゼフ様についての歴史を残していない。このままでは自分たちにとって大事な歴史が消えてしまう」-。浦上の復興史研究の過程で知り合った深堀さんら多くの信徒のその思いに背中を押されたと、桐谷さんは言った。

奇跡

 1907年、大村市生まれの岩永修道士は24歳のとき鹿児島市の聖フランシスコ修道院に入り修道士となった。浦上の神学校に従事していた41年、日米開戦とともにカナダ人の神父、修道士は「敵国人」として抑留所へ連行され岩永修道士ら2人の日本人修道士、約40人の神学生が残された。

 軍部による学校接収の危機の中、岩永修道士が東京の日本人神父に相談し浮かんだのが、神学校を当時急増していた結核患者の療養所に転換させる案だ。許可を求めて県庁との交渉に奔走。42年春、神学校は浦上第一病院に生まれ変わった。神学生たちは祈りを続けながら患者の世話をした。

 だが医療設備も十分でなく医師は次々に去った。岩永修道士は宗教にかかわらず医師探しに手を尽くした。44年9月、新医長として迎えたのは熱心な仏教徒。1年後の被爆直後、爆心地に最も近い救護拠点となった病院の焼け跡で瀕死(ひんし)の人々の治療に当たり、後に平和運動に尽くした故秋月辰一郎医師だった(秋月医師は後年カトリックに改宗)。

 「原爆が落ちた直後、混乱の中でヨゼフ様が何人もの患者さんらを救出したと秋月先生から聞きました」。被爆者でもある深堀さんは終戦後、浦上第一病院の後継である聖フランシスコ病院に事務職として就職、秋月医師の下で働いた。

 岩永修道士は45年8月9日の原爆投下時、病院2階の倉庫にいて直接の熱線や爆風被害は免れた。幼少時の病気が原因で右足に障害があったが、燃え盛る炎の中を多くの患者、医師、看護師を背負い退避させた。聖体、マリア像を運び出し夜通し消火活動に当たった。

 本人は被爆証言集にこう書いている。「『一人でも焼き死にさせてはいかん、皆さん決死のつもりで救い出しましょう』といってがんばりました」。秋月医師は爆心地から1・4キロの病院で約70人の入院患者が全員無事だったことを「奇跡」と記した。その陰には岩永修道士の献身があった。

象の足

 今は時津町で暮らすカトリック信徒の本山しのぶさん(85)は終戦の翌年、満州から浦上に引き揚げてきた。浦上第一病院の焼け跡に再建された診療所のチャペルに通い始め、そこで出会ったのが岩永修道士だった。「畑仕事のときは、はだし。かかとの皮膚がとても分厚くてひび割れて、まるで象の足のよう。ヨゼフ様は働き通しでした」

 岩永修道士は神学校時代からずっと耕作や家畜の飼育に汗を流した。

 フランシスコ会側は戦後、病院を再び神学校に戻す方針だったが、被爆者や結核患者のためにと岩永修道士は病院存続に向けて行動し、実現につなげた。子どもたちにキリスト教の教義を教え、聖歌隊の指導、布教活動にも精力的に取り組んだ。原爆で心身ともに傷を負った浦上の信徒に寄り添い、宗教を通して再び生きていく道を示していたのだと本山さんは思う。

象徴

 住宅街の奥から丘に延びる細い階段を上ると、新緑の木漏れ日を浴びた祈りの空間が広がっていた。

 長崎市小峰町の聖フランシスコ病院近くの「小峰のルルド」。フランスの聖地ルルドの泉に倣い50年代前半にかけて、岩永修道士が主導して建造した二つのルルドのうちの一つだ(もう一つは近隣の本原教会にある)。今も信徒が訪れる。

 水が湧き続けるその場所は禁教時代、役人の探索から逃れる隠れキリシタンたちの避難場所だった。原爆の日、浦上の人々が水を渇望して身を寄せ、岩永修道士が救出した患者らを運んできたのもここだった。飲むことができた60年ごろまでは洗礼式や臨終の際の「最後水(さいごみず)」としても使われた。

 「原爆で精神的・肉体的打撃を受けた人たちの心の支えに」との岩永修道士の思いが込められた二つのルルドは、浦上の信徒にとって復興の象徴でもあった。

 小峰の現場で岩永修道士が信徒らと斜面地の岩盤を削り、川から運んだ石を組んでいた様子を本山さんは覚えている。深堀さんは作業に参加していた。文字を彫った旧浦上天主堂の大理石をルルドへつながる参道の土手に設置するためにと、岩永修道士から頼まれ半紙に書いて渡したのが「喜」「苦」「栄」の文字。宅地開発のあおりで参道が取り壊され、いつしか本原教会のルルドに大理石が移されていたのを私が見つけ、深堀さんに伝えたのが冒頭のやりとりだった。

 「カトリックでは修道士は目立たない存在なのですが、こういう方がおられたことを知ってほしい。病院を守ったのも、人々の信仰を支えたのもヨゼフ様でした」。深堀さんは言った。

恩返し

 岩永修道士は戦後、聖フランシスコ病院、本原教会の修道院に仕え97年5月、89歳で生涯を終えた。

 聖歌隊時代、本原教会の幼稚園の教師になってからも、いつも見守られていたという本山さんは、岩永修道士が亡くなった年に入院先を見舞った。しかしすぐに退院できると思い、感謝の気持ちを伝えられなかったことを後悔している。

 「だから桐谷先生から聞き取り調査のお願いがきたとき、精いっぱいの努力でヨゼフ様への恩返しを委ねようと思いました」

 横浜市在住の桐谷さんの亡き祖母は長崎被爆者だ。約6年にわたり岩永修道士について調べ、あらためて思ったという。戦後75年を経てもなお語られるべき人が埋もれているのだと。

 聖フランシスコ病院の庭には樹齢約80年のタイサンボクが立つ。原爆投下以前、畑仕事の合間に木陰で休めるようにと岩永修道士が幼木を植えたのだった。原爆を生き抜き、高さ30メートル近くにも育った被爆樹。私が数日前に訪れると、今年も白い大輪の花を咲かせていた。

(長崎総局長・山崎健)

【ルルド】フランス・ピレネー山脈の麓にある町ルルドで1858年、聖母マリアに導かれた少女が洞窟で土を掘ったところ泉が湧き、難病をも治す力があると言い伝えられカトリック信徒の巡礼地になった。これを模した「ルルド」が世界各地でつくられた。県内にも複数あり、長崎県五島市の井持浦教会のルルドが日本で最初につくられたという。

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