中村八大編<465>運命の地の青島 

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)する直前の1941年の秋、門司港(北九州市)に接岸した客船から小学4年生が降りてきた。当時、日本が統治していた中国・青島から一人だけの2泊3日の長い航路だった。背負ったランドセルには東京の親戚の住所が張り付けられていた。この少年が中村八大だ。 

   ×    × 

 中村が乗船した門司港と青島を結ぶ国際航路は14年末に開設された。この年、第1次世界大戦が始まり、日本は連合国側として参戦した。東アジアの拠点として青島を租借地にしていたドイツとの戦いを制し、軍政下に置いた。その直後に航路は開かれた。 

 青島には終戦まで盛時には貿易商人など2万人以上の日本人が居住していたという。地政学上、九州出身者が多かった。 

 「赤い屋根のヨーロッパ風建築とアカシアの緑が何とも美しく、街を囲む海岸線は東洋のニースと呼ばれた」 

 「外地(青島)では赤いレンガの家に住み、完全暖房でぬくぬくと育っていた」 

 中村はドイツが17年かけて築いた街並みが色濃く残るモダン都市・青島の風景を著書「ぼく達(たち)はこの星で出会った」(92年)で回顧している。 

 中村は青島第一尋常小学校の校長をしていた父和之、母小春の5人兄妹の三男として1931年に生まれた。 

 和之は福岡県久留米市生まれで教師をしていた。青島には大正末期ごろに渡った。八大は「志を抱き」と書いている。八大の長男で「八大コーポレーション」代表の中村力丸(56)は「祖父が自分で希望したのか、人事異動に従って行ったのかは、はっきりしません」と語る。そこには海外雄飛への若き衝動があったはずだ。 

 「家には竪型のピアノがあり、手動式の蓄音機もあった」

 中村は恵まれた音楽環境にあった。ピアノなどは和之が現地で買いそろえたのか。力丸は「入居した家にあったのではないでしょうか」とも話す。 

 どちらにせよ、近代史のめぐりあわせの中で、ドイツの誇るクラシック音楽と交差することになる。その意味では中村にとって青島は運命の選ばれた土地だった。 

 ピアノは姉の和子が弾く様子をまねて、少年の遊び道具になった。小学3年生になると青島女学校の音楽の先生からバイエルを習い始めた。 

 「この子の音楽好きは相当なものだ。才能を伸ばしてあげたい」 

 両親は内地日本への「逆留学」を決断し、門司港行きの船に乗せた。 

  =敬称略 

  (田代俊一郎)

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ