平野啓一郎 「本心」 連載第262回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 通路は狭く、他の客と擦れ違う際にはコートやバッグが、並べられている小物に触れはしまいかとかなり注意した。イフィーが車椅子で来るのは、難しそうだった。仮想空間のアンティーク・ショップなら、多少、アクセサリーなどに引っかかっても、その都度、床に落ちて壊れたりはしないだろうが。

 しかし、一つ一つの物が留(とど)めている時間の痕跡は、触れたあとで指先に残る匂いまで含めて、決して仮想現実では再現し得ないものだった。

 イフィーは、「わぁ、スゴいですね、このお店!」と興奮した様子だった。指示の言葉は出来るだけ短くと取り決めていたので、彼も、僕のゴーグル越しに、「その、古い木製のマッチ箱、手に取ってみてください。」、「それ、何ですか? 銀製の魚のかたちをした、……」と、次々に命じていった。

 三好も、「イフィー、これはどう?」と、額縁のように凝った装飾の木製トレイを持ってきて、彼に勧めたりした。

「一九七〇年代のフィレンツェ製なんだって。裏は傷だらけだけど、味わいね、これも。」

「きれいな色ですね。金地にオリーヴ・グリーンなのかな。変色のせいで、斑(まだら)に複雑な色合いになってますね。」

 僕たちは、三人で店内を巡ったが、所々に掛けてある壁掛けの鏡には、当然のことながら、僕と三好だけが映っていた。それは、イフィーがここにいないことを、念押しするように強調した。

 僕は、アール・ヌーヴォーの少しくすんだ鏡に目を留(と)めて、しばらくその前に立っていたが、イフィーにとっては、それもまた、奇異な体験のようだった。

「鏡に映った自分が、朔也(さくや)さんだっていうのは、ふしぎな感覚です。……じっと見ていると、本当に、自分がこんな姿形なんじゃないかって気もしてきます。ちゃんと立って、歩いてて。」

 僕たちは、一時間ほども店にいただろうか。三好は、

「なんか、連れてきておいて、わたしが一番、ハマってるかも。いつまででもいられそう。」

 と笑った。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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