地の果てから(12) <偏見>近代化でひどくなる迫害【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

<1987年9~10月に本紙夕刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「地の果てから パキスタン北西辺境の人々」(全17回)>

著しい割拠性

 パキスタン北西辺境州の特殊性の一つは、巨大なヒンズークシ山脈とその支脈によって各地域が分断され、割拠性が著しいことである。例えば北部辺境では、チトラル、ヌーリスタン、フンザ、コーヒスタン等の地域は全く異なる独自の言語をそれぞれに持つ小国家群と言える。

 ハンセン病に対する偏見も、各地域によって全く異なっていた。辺境社会では、古代後期から現代まで、あたかも古代遺跡の発掘現場のように、重層的に社会の発展段階を眺望できるのである。このような所で、ハンセン病に対する偏見が時代とともにいかに変遷してゆくかが一つの興味でもあった。

 地域によってはほとんど偏見らしいものがなく、社会生活からの脱落は他の麻痺性疾患と同様、合併症による機能障害(盲目、手足の変形)のみが原因であることもある。逆の極端な例は、ハンセン病とわかればこれを親族から抹殺し、家名を守るというところもある。定着農民と遊牧民とではまた異なる。ペシャワールあたりからパンジャーブにかけての平原部では、インド的な寛容さで乞食をして食べてゆける余地がある。ところが、生産性の低い山岳部では、一般に無駄な人口をかかえるゆとりがなく、患者も苦境に陥ると想像していたが、案外そうではなかった。

土着の伝統に根ざす

 ハンセン病に対する迫害が本格化するのは比較的近代化された社会においてである。これはその地域の生産性とは関係がない。前近代的な社会では、恐怖心をそそる迷信が横行していても、患者たちには必ず、一定の生活の余地が共同体の片隅に与えられているものである。

 古代からハンセン病は特別な偏見の対象とされてきた。この事情は、紀元前のユダヤ民族誌である旧約聖書にも明らかである。しかし、北西辺境に関する限り、近代日本に見られたようなひどい迫害や、ヨーロッパ近世の「らい病人のミサ」のような異様な儀式も見聞きすることはなかった。元来、イスラム教典にはハンセン病に関する記述がとぼしく、イスラム教そのものが、キリスト教社会とは異なって、その社会的偏見の形成に役割を担ったとは考えられない。ほとんどの地域では、偏見はイスラム以前の土着の伝統に根ざすものと思われる。元来、皮膚病一般がみかけのよいものではない。それに加えて、本病による顔面・四肢の変形、傷口から発する悪臭等が、この病に対する独特の観念を各社会に形成してゆくものと思われる。さらに、「うつる病」という発見が不安を生み、隔離差別の風習を社会構造に組み入れてゆくらしい。

「ジュザーム」

 北西辺境州やアフガニスタンでは、ハンセン病をジュザームと呼ぶ。これはペルシャ語の借用で、地域によってはジュゾーンとなまる。ところが奇妙なことに、「ジュザームは恐ろしい病気」という観念のみがゆきわたり、その症状については人々はよく知らない。甚だしきは、「人肉を食い、人里に下りて子供をさらうようになる」などという荒唐無稽な尾ひれがつくが、ジュザームを見たという話はたいてい怪談に近い茶話である。「ジュザーム」の話はよほどひどい変形患者に対して、それもある程度の知識層によって使用される。要するに言葉だけが一人歩きしているのである。

 この事実から私が推測するのは、北西辺境の場合、ペルシャ文化の浸透に伴って、進行患者に対する「ジュザーム」の共通呼称と組織的偏見がもたらされたということである。つまり、より高い文化による偏見の再編成である。

無慈悲な医療関係者

 同様の過程が現在、近代医学のレプラ又はハンセン病の名の下に繰り返されているように思われる。「科学的知識」は中世的な迷信を駆逐するが、偏見は温存される。それどころか、ますます患者に対する迫害が無慈悲なものになってゆくとさえ思われるのである。ちなみに、偏見は医療関係者において最も過敏で著しいのも特筆に値する。

 中世的な迷信である「たたり」や「天刑」などは、不合理ではあっても精神的事象が重視される。美醜の感覚のみで人を断罪するうしろめたさや良心が、患者に対して共同体内の片隅にしろ生きる場所を与えるなど、社会的ルールの中に反映される余地がある。ところが、細菌感染という精神的なものを介さぬ科学的知識は、正しい理解より先に、迫害をより露骨でひどいものにしてゆく。極言すれば、本病に関する限り、古い牧歌的な迷信の方が無味乾燥な科学的知識よりマシであったとさえ思うこともある。これは、よほど我々の注意すべきことで、医学的知識でさえも両刃の剣であることを身にしみて考えさせられる。

(医師・パキスタン在住)

PR

国際 アクセスランキング

PR

注目のテーマ