地の果てから(14) <ふるさと>(上)いつかは父が迎えに来る【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

<1987年9~10月に本紙夕刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「地の果てから パキスタン北西辺境の人々」(全17回)>

世捨て人のように

 彼はアフガニスタンからやってきた。年齢は自分でもよく知らない。多分十七歳ぐらいだと本人は言うが、どうみても十二-十三歳ぐらいの少年である。故郷はバダクシャーン(ヒンズークシ山脈の北麓)。とってもきれいなところだ。父に伴われ、三年前にペシャワールに連れてこられた。

 二歳上の兄も同じ病気だった。兄は入院後まもなく死んだ。いつか父が迎えに来るだろう。――それが、彼の記憶の中から拾いあげて人に語り得るすべてであった。静かなものごしの中にまるで世捨て人のような、年にふさわしくない何か悟りきった面影がある。

 きっと迎えに来る。と言って帰った父は、三年間何の消息もなかった。三年前といえば一九八三年で、ソ連軍の侵攻後、内戦が次第に激しくなっていた時期である。バダクシャーンからは、パキスタン側のチトラールまで約二-三時間歩き、チトラールからさらに二日バスを乗り継いでの道のりである。

老人のような諦念

 彼の父は帰途、戦闘にまきこまれて死んだかも知れぬ。あるいは……しのびなく自分の子を捨てざるを得ない事情があったかも知れぬ。ただはっきりしているのは、彼は、われわれの病棟の中で一人ぼっちで将来の見通しもなく入院を続けざるを得ない、ということだ。

 あるとき、私は回診中に「おい、まだいのちがあるのかい」と声をかけたことがある。これは親しい人に対して述べられる冗談めいた普通の挨拶なのだが、少年はしばらく間をおいてさみしそうな笑いをうかべ、「先生、私のいのちはあるけれど、完全でないですよ」と切りかえした。

 妙にしんみりした声の調子だったので、私も真顔になってじっと顔をのぞきこんでみると、この年齢にはふさわしくない老人のような諦念が表情に現れてみえた。

 以後、私はこのような冗談を彼に言うのをやめた。この少年には何かの希望をもたせる以外にない、と私は思った。

雑役が唯一の日課

 古い記録を調べてみた。少年とその兄は、一九八三年四月三十日、この病棟に父に連れてこられた。らい腫型のハンセン病と診断され、兄の方は変形がひどく入院後まもなくらい反応をおこし、喉頭浮腫によって窒息死した、とある。

 この時、気管切開等の救命処置は何もされず、一九八三年五月二十六日に死亡している。病院の医師からは何の指示もなかったという。

 その後少年は“社会的事情”により長期在院、MDR(多剤併用療法)をうけ、ほぼ治癒に近い状態となった。ソーシャル・ケースワーカーのファイルには、彼の教育と将来の自立についてごてごてとアイデアが羅列してあったが、何一つ実現されたものはなかった。病棟で、雑役でスタッフを助けるのが彼の唯一の日課であった。

いつしか暗い影が

 おそらく、彼は自分の故郷に対して愛憎の混じった複雑な記憶を心にいだいていることであろう。

 元来、彼の母国語はペルシャ語であるが、入院中にウルドゥ語を覚え、パキスタン人と意志疎通は困難でなかったので、入退院する多くの患者たちをみてきた。

 この病棟と周辺のオールド・バザール、それに複雑な感慨をもって追憶する彼の故郷アフガニスタン――これが、彼の世界のすべてであった。“外”の世界に比べれば、ミッション病院のハンセン病棟のスタッフたちは親切であった。少なくとも、一人前の病人として患者をとりあつかってくれた。限られた範囲ではあっても、出来るだけのことはしてくれた。

 一九八四年三月にアフガン人びいきのドイツ人のシスターが病棟管理でやってくると、特にこの少年は大切にあつかわれた。病気が治ってゆき、父親がいつか迎えに戻ってくるという希望をもって、よく他の病人の世話もし、スタッフの手足になって彼は働いた。

 しかし、父親は現れず、ドイツ人のシスターも一年後には病棟を去り、少年の心にはいつしか暗い陰がさし始めていた。

(医師・パキスタン在住)

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