地の果てから(15) <ふるさと>(下)難民の悲哀を背負って…【中村哲医師寄稿】

西日本新聞

<1987年9~10月に本紙夕刊に掲載された中村哲医師の寄稿連載「地の果てから パキスタン北西辺境の人々」(全17回)>

嫌気覚える少年

 病棟での多くのできごと、病棟の偽善的な態度、患者同士の対立、なぐりあい、乞食のような患者の態度、スタッフ同士のいがみ合い……感受性の豊かな少年の眼にはこれらのことがどんなに気落ちさせるか、察して余りがある。いつしか様々の不平が、若者にありがちな強い正義感で増幅され、うちとけにくくなっていくのを私は感じていた。自分は乞食ではない。口先で平等と同胞愛を説きながら患者たちを食いものにしている人々にたまらなく嫌気を覚える、と少年は述べた。

 折しも一九八五年頃から、ペシャワール市内でおきた多数の爆破事件は、市民の中にアフガン人――パキスタン人の亀裂を深めさせていった。意を決して、彼はパキスタン北辺のチトラールに赴き、そこで難民として定住しているかも知れぬ親戚を捜してみたようだが、消息はつかめず、この戦乱のさなかに一人で故郷に帰るのは不可能であったので結局ペシャワールに舞い戻ってきたことがあった。

人の気持ちの醜さを

 一九八五年十月に彼がチトラールに赴くべく私に許可を求めた時、おそらくこの少年は戻ってこぬかもしれぬ、と思った。それで、「何か困ったことがあればいつでも戻ってくるように。危険な真似はせず、時を待ち、自立できるように読み書きを覚え、何か手仕事を身につけておくのも方法だ」と私はそれとなく示唆した。「先生がおっしゃりたいことはわかっています」と彼は言った。「しかし、それを誰がしてくれるのですか。学校に行け、訓練所に行けと皆は言うが、先生以外に誰も努力をしてくれなかった。アフガン難民の訓練校も、キリスト教会のアフガン人のための英語学校も、どこも僕を受けいれてくれなかった」、これで彼のチトラール行きの目的は明らかになった。彼は余りに多くの人の気持ちの醜さをみすぎたのだ。それもよかろう、と私は思った。彼の言うことは事実なのだ。ただ、一人前の判断をするには彼は若すぎる。夢と希望が自暴自棄に転化して、心がすさんで行かぬよう、逃げ道を作ってやらねばならないと私は考えた。

ベッドは空けておく

 「よろしい、行きなさい。しかし、これは退院ではない。外出だ。君のベッドはそのまま空けておく。読み書き、計算の方は俺が今準備中だ。勉強しておくのは、たとえアフガニスタンに帰っても役に立つから」とだけ述べて許可を与えた。

 二週間後に彼は戻ってきた。チトラールで彼が何を考え、何を感じたか私は知らない。チトラールは私も何度も行ったことがあるが、人も自然も事実上アフガニスタンの続きであるといってよい。美しい白雲をいただく巨大なヒンズークシの山なみと、平和な緑のオアシスの村々の光景が、いかに強烈にこの少年の郷愁を呼びおこしたか、私は容易に想像できるのである。土ぼこりと騒音にみちたペシャワールの雑踏が、彼自身の不幸せな体験と重なっていかに異物のように感ぜられたことであろう。

先生も出て行くの?

 しかし、ともかく少年はもどって来た。

 「チトラールはどうだったかい? 楽しんだかい?」と私がきくと、彼は初めは興奮して、ひとしきりチトラールが自分の故郷に似ていること、チトラールのキャンプでは故郷から来ていると噂をきいた伯父には会えなかったこと、山の中で石小屋に閉じ込められて暮らしているハンセン病患者をみたこと等を、たて続けに話した。だが最後に、ふと声をおとして少年は私にきいた。

 「先生もあのシスターのように、いつかはここを出てゆくのですか?」

 「インシ・アッラー(御意ならば)、いつかはね。しかし、おまえが独りだちするまで俺はここを離れない。ともかく、今はここで手伝いをしていろ。悪いようにはせん」

 「心配をかけました。ドクター・サーブ」

 「案ずるな。ムサルマーン(回教徒)も、イサーイー(キリスト教徒)も、みんな何かをさがして巡礼しているのさ。結局、メッカは自分の中にあるのさ」

 「ドクター・サーブ、長くいて下さい。ありがとう」

 祈りの時間を告げるアザーンの読誦(どくしょう)がモスクから流れてきた。患者たちは西にむかって礼拝を始めた。少年は高く澄んだ秋の青空を仰ぎ、ひと仕事終えて一息ついたようながすがしい顔をして自分の部屋に帰っていった。

(医師・パキスタン在住)

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