平野啓一郎 「本心」 連載第266回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 イフィーの絶望は、僕の胸に金属的な熱を帯びたまま染み出し続けていた。

 三好は硬く口を閉ざして、しばらく俯(うつむ)いていた。向かい合って立ち尽くした僕たち二人を、人々は、駅でよく目にする痴話喧嘩(ちわげんか)のようにちらと盗み見て、通り過ぎていった。

「……どうかしてる。」

 そう呟(つぶや)いて首を横に振ると、三好はもう、僕ともイフィーとも目を合わせることなく、そのまま駅に向かって歩き始めた。追うべきかどうか、僕はモニターのイフィーを確認した。彼は放心したように、しばらく彼女の背中を追っていたが、やがて嘆息とも泣き声ともつかない声を漏らしたかと思うと、そのまま、僕との回線を切断してしまった。

      *

 週明け、僕はイフィーから三日間の休暇を与えられ、結局それが一週間になった。

 友人として、彼の心情は察することが出来たが、僕の雇用が、いかに不安定なものかということは再認識させられた。

 収入も、イフィーの気分次第であり、或(ある)いは、このまま彼との関係も絶えてしまうのではと危惧された。僕の代わりも、簡単に見つかるだろう。そうなれば、僕はイフィーに抗議するつもりだったが、彼から、折に触れて受け取った“厚意”の額を思えば、それも躊躇(ためら)われた。

 そうした曖昧さは、労使関係だけではなかった。

 彼の仕打ちに、僕が傷つかなかった、と言えば嘘(うそ)になる。自分を惨めに感じ、また、彼に対しては憤りも覚えた。しかし、彼はくどいほどに何度も、僕の三好に対する感情を確認していたはずだった。そして、僕はきっぱりと、「ただのルームメイトです。」と告げていたのだった。僕には、何も言う資格がなかった。

 それでも、僕は、彼の切迫した、衝動的な行動に、長い時間を経た末の一種の狡智(こうち)を認めずにはいられなかった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ