中村八大編<466>戦時下の内地留学

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 「二大の家にはピアノがあったのでぼくはしょっちゅう、ピアノを弾いて遊んだ」 

 九州交響楽団の初代指揮者、石丸寛は中村八大と同じ中国・青島生まれだ。二大は中村の長兄で、石丸とは現地の日本人学校の同級生だった。本紙の聞き書き「指揮棒独り旅」(1997年)の中で書いている。

 二大は小学生でクラリネットを吹き、八大も演奏に参加することもあった。

 「幼い八大はいつも、よだれを垂らしていた。ところが、この“よだれ”の弟が一番ピアノがうまい。楽譜を渡すと、初見ですらすらと弾く」 

 両親だけでなく石丸も子どもながら中村の才能を見抜いていた。その才を伸ばすため小学4年生の10歳の時に内地留学した。 

 中村が叔母の家に下宿して通ったのは東京音楽学校(現東京芸大)付属の上野児童音楽学園である。この学園は33年、10歳前後の児童を対象に、早期英才教育を行うために設立された。中村は学園とは別にピアノと作曲の個人レッスンも受ける、クラシック漬けの生活だった。ただ、次第に違和感もふくらむ。「私をゆさぶった音楽はどこへ行った」と自著の中で回想している。 

 「本科生のピアノレッスンは、それこそ死に物狂いのハード・トレーニングで、習っている娘さんの目はつり上がり、すさまじい形相でピアノを叩(たた)き鳴らしていた(中略)そこには音楽性のひとかけらも感じられなかった」 

   ×    × 

 日本式の詰め込みと技能至上主義の疑問、反発は庶民的な音楽へと向かわせた。喜劇王と言われた古川ロッパの一座、エノケン(榎本健一)一座などのショーだ。当時、人気だったオーケストラボックスのある一種のミュージカルである。 「児童学園にゆくのをサボり、おばさんの目を盗んで、一人で東京の劇場めぐりをするようになった」 

 中村は43年の小学6年生の夏、青島の親元にもどった。中村は「劇場通いがばれて」と書くが、体調も崩していた。中村の長男、力丸が「ホームシックもあったではないでしょうか」と話すように、いくら気丈な少年とはいえ、家族恋しさも募っていたはずだ。その小さな背中の向こうには厳しくなる戦況の中、音楽への国家統制も強まるなど重苦しい空気が流れていた。

 中村の内地留学は約2年間で終わった。クラシックだけでなくポピュラーな音楽世界を見聞したことはその後の道筋を暗示していた。 =敬称略 

  (田代俊一郎)

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