「ゼロに身を置く」医師 吉田昭一郎

西日本新聞 オピニオン面 吉田 昭一郎

 オンライン診療と対極の世界だろう。膝をつき合わせて、延々と語る患者の言葉に耳を傾けるその精神科医は、最後まで聞いてはぼそぼそと言葉を返す。ドキュメンタリー映画「精神0」(想田和弘監督)の一場面。患者本位で知られた医師だ。引退が近く、患者のその後を心配する。

 その青年は持て余す物欲の悩みを話し始める。CDが欲しい、漫画も欲しい…。先生に以前「ゼロに身を置く」心を習ったが、うまくいかない。先生は「自分がしたいことや好きなことを大事にしよう」とおっしゃった。でも、したいことはもっとしたくなる-。そんな相談だ。

 医師は言う。「自分がしたいというものは大事にせにゃいけんのじゃ。しかし現実には思うようにならんが。雨降らんならええのになと思っても降ってみたり、思うようにならんことが多いが、けっこうな。雨が降らんならええなという思いは変えんでもええんじゃ。天気だったらええのになあ、雨じゃなあ、仕方がないなあと、普通そうやって生きていきよるんじゃと思うんじゃ。それでいいんじゃと思うんじゃ」

 続けて説く。週に1日は「ゼロに身を置く」。この日は「思い通り」をやめて、今に感謝する。物欲を抑える。ただ生きているだけでありがたい。ご飯を食べられるだけありがたい。殴られて痛いのは生きている証拠だ、と-。青年は笑顔を見せ始める。

 たぶん、似たような対話を重ねてきたのだろう。病の完治は容易ではない。しかし、対話を重ねる先で、青年は落ち着く。そうして一日一日をつないでいける、ということもあるのではないか。

 インターネットのテレビ電話で診察するオンライン医療は、感染症拡大を回避する大切な手だてだ。気になるのはコロナ終息後、その目的が経営の効率化にすり替わらないか、ということだ。映像で患者の顔色を見て体調を聞いて「異常なし」と所定薬を処方して終了、と点数稼ぎに偏るなら、人々の命と健康を守る本来の使命は果たせない。

 「ゼロに身を置く」と、その医師がよく口にしたと伝え聞いた想田監督は「先生はそう自分に言い聞かせていた」と見る。患者に寄り添えば寄り添うほど仕事が増えハードになる面もあっただろう。「ゼロ」への気持ちの切り替えで、踏ん張る闘いがあったに違いないというのだ。

 「ありがたいが増えたら気分がええで、なあ」。患者にそう言う医師の言葉には、全人格を懸けて患者に向き合ってきた深さと重みを感じる。

 (クロスメディア報道部)

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