中村八大編<467>言葉超えた師弟愛

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 中国の青島には現在、青島日本人学校がある。

 中村八大が戦前に通った日本人学校は終戦によって閉じた。その後、1972年の日中国交正常化を経て2004年、約60年ぶりに開校した。同校事務長の池田光隆(73)は言った。

 「八大さんや校長をしていたお父さん(和之)のことが今でも時々、話題にのぼることがあります。お父さんは立派な先生だった、と伝え聞いています」

 「立派な先生」とはどのような像なのか。中村の長男の力丸は青島で直接、交流のあった人たちから耳にしたことがある。

 「日本人と中国人を分け隔てることなく接し、軍部にも物を言う人だと聞きました」

 リベラルな教師像が浮かびあがる。それは中村への教育法からも補強できる。男子であれば「軍人になる」との戦時下の風潮の中、音楽の才を伸ばすために内地留学までさせている。中村が手にしたのは竹やりではなく、ピアノだった。

   ×    ×

 内地留学からもどった青島で、さらに決定的なピアノ講師との出会いが待っていた。ユダヤ系ドイツ人、ダ・カール・ヘルスだ。言葉は通じなかった。約1年間、師事した。ある日、ヘルスは日本の将校倶楽部でピアノ演奏会を開いた。中村も多くの軍人にまじって席に着いた。

 ヘルスは「荒城の月」「さくらさくら」の2曲を弾いた。原曲通りではなかった。編曲されていた。音楽家のプライドといえる。中村は「演奏の大半は即興演奏だった」と記している。師への思いは深く、強い。

 「生涯に何度も流さない涙をとめどもなく流し、このとき初めて、生涯をかけて大音楽家になろう、と心に誓った」

 「即興演奏の実演で、音楽の世界に上等、下等の差別がないということを身をもって教えてくれた」

 ヘルスはナチスドイツのユダヤ人迫害から逃れて青島へ。中村は祖国から離れた青島で生まれた。いわば2人は、故郷や祖国から切り離された、故郷喪失者である。それが歴史の流れの中でクロスした。師弟愛の底には、故郷喪失者の孤独や悲しみの旋律が流れていたように思える。

 即興演奏や上等、下等の区別なき世界…。このような中村の音楽世界を語るキーワードはすでに青島での体験で醸成されていた。

 終戦の前年の1944年の秋、中村一家は内地、日本へ引き揚げた。

  =敬称略

  (田代俊一郎)

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ