「次の空襲は…と順番待ち」14歳がつづった戦争の日常【軍国少年日記】

西日本新聞

 福岡県久留米市の中学明善校(現明善高校)OBの竹村逸彦さん(89)=東京都町田市=が、戦前戦後につづった日記を「軍国少年日記」として久留米市に寄贈した。1945(昭和20)年8月11日、214人が犠牲になった久留米空襲など、壮絶な体験が14歳の目で詳細に記されている。その内容を基に、当時を振り返ってもらった。

 日記は、内容の濃淡はあるものの45年5月25日から46年3月23日まで毎日、きちょうめんに書いてある。

 45年6月19日、死者・行方不明者千人を超えた福岡大空襲の様子は、深夜だったため久留米からも見えたという。翌20日にはこう書いてある。

 きのふの十一時頃(ごろ)から空襲警報が発令されて、敵機来襲の鐘が二十度位なった。およそ敵機が脱去したと思われる時、庄屋のかどから北をみたら、空の雲が赤くそまっていた。みんな、きっと福岡だらうといっていたが、ほんとにすごかった。

 竹村さんによると、当時は高くても2階建ての建物しかなく、北の空も遠方まで見渡せた。闇夜に夕焼けとは違う濃い赤い空が広がっていたという。「不思議と恐怖感はなかった。次は久留米だと順番待ちをしている感じ」。頻繁に米軍のB29爆撃機などが久留米の上空を飛ぶ姿を見たり、ラジオで米軍機の飛来状況を聞いたりしていたからだ。「今考えると当時は感覚がまひしていた」と振り返る。

 もう一つ気になったのは、広島と長崎に投下され、甚大な被害をもたらした原爆について、14歳の少年が何を考えたのかということ。8月6日と9日のページをめくってみた。が、原爆に関する記述は一切ない。久留米には伝わっていなかったのだろうか。

 竹村さんによると、当時の新聞では「新型爆弾」と表現されていたそうだ。新聞には「相当な被害を生ず」と記録されているが、竹村さんは「犠牲者数など被害の全容は伝わっておらず、当時の自分は激しい空襲くらいの認識しかなかったのでは」と推測。「すぐに被害を把握できなかったこともあるだろうが、情報統制の影響で発表されなかった事実もあったと思う」と話す。

竹村さんがラジオから聞き取ってメモした防空情報。「敵大型大編隊 久留米上空を北東進中なり」など危機的状況が伝わってくる      

 そして、久留米市の市街地の7割を焼き尽くした8月11日の久留米空襲。日記によると、竹村さんは米軍の爆撃機が飛来する姿を見て、中学明善校にあった防空壕(ごう)に身を隠す。焼夷弾(しょういだん)の影響で燃え盛る校舎や近くの税務署を必死に消火しようとするが、炎の勢いは止められなかった。空襲が収まった夕刻に帰宅する際に、街の被害状況について記してある。

 帰りに街を見ておどろいた。明治通りは、デパート及(およ)び銀行をのぞいて、みなつぶれてしまって、きのふまでの面影は丸きりなくなっている。電線は道にたれ下がり、危ない危ない。丁度(ちょうど)、デパートの前で、にわか雨がふりだした。ああこの雨がせめて四五時間早かったら。

 街の様子が細かく描写してあるが、竹村さんは「明善を出てからどんな光景だったのか、頭の中が真っ白で、全く覚えてない」と打ち明ける。「やっぱり気が動転していたんでしょう。今だったら目を皿にして脳裏に焼き付けるだろうけど」と続けた。

 終戦の8月15日。友人から「日本は無条件降伏したげな」と聞き、「おったまげてしまって物もいへなかった」。そしてこう続く。

 たとへ大和民族が絶えてしまはうとも、恥さらしな降伏をするよりも、世界の人々から、日本人は最後の一人まで戦って敗れたと、たたえられる方がよい。

戦時中を振り返る竹村逸彦さん

 この記述について、竹村さんは今、こう思う。「戦争に負けるなんて思ってなかったんだから。一部の大人を除いて同じことを思った人は多かったんじゃないかな。進駐軍が来日し、軍事力の差を目の当たりにして、何て無駄な戦争をしたと痛感した」と。

(村田直隆)

※インタビューの内容は2015年6月2日時点のものです

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