平野啓一郎 「本心」 連載第275回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 三好はそう言った後に、思わず口をついて出た「もう十分」というその言葉が、母が安楽死を決意した際に口にした一言だったことを思い出したらしく、気まずそうに目を逸(そ)らした。

 僕は、それには敢(あ)えて何も言わなかったが、ただ小さく首を振って、

「イフィーさんも、自分の障害を三好さんに受け容(い)れてもらえるかどうか、不安がってました。それぞれに事情があるんだし、理解し合えますよ、きっと。大丈夫です。」

 と言った。三好は、無意識らしく、パーカーの襟元を掴(つか)んで少し引っ張ると、僕をつくづく見つめて静かに息を吐(つ)いた。

「優しいね、朔也(さくや)君は。……朔也君のお母さんも、よくわたしの話、聴いてくれたけど、……似てるね、やっぱり親子で。――正直、今ここにいさせてもらってるのも、居心地いいんだよね。わたし、最初にすごく失礼なこと言ったと思うけど、朔也君、その後もわたしのこと、ずっと尊重してくれたし。こんなに紳士的に接してくれた男の人、初めてよ。それも、お母さんの育て方?」

 僕は、この特別な夜がもうじき終わり、二度とは戻って来ないことを漠然と思って、寂しく感じた。“死の一瞬前”に、僕はこの夜のことをこそ思い返し、この僕として死ぬのではないかと想像するほどに。

「それは、……買い被(かぶ)りすぎだと思いますけど、三好さんに嫌われたくない気持ちは、ありました。……でも、居心地がいいのは、最初は避難所から移ってきたからだったし、今は、イフィーのお金があるからですよ。それなしで、僕とずっとここで暮らしていても、明るい未来はないです。」

 三好は、僕の言葉に目を瞠(みは)った。

 結局のところ、僕は愛の問題ではなく、生活の問題だと考えようとしていた。今のような世界では、たった一度の人生の中で、人がより豊かな生活を求めるというのは、当然のことだった。結婚だって、恋愛がその動機になったというのは、短い僅(わず)かな時代の、壮大な、失敗した実験だったと、今では多くの人が考えている。必要なのは、より良い生活を共にするための相手だった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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