「俺が行かないと」特攻精神強いられ 同期7人犠牲、元隊員の思い

 3カ月に及んだ沖縄戦では、多くの若者が九州の航空基地から「十死零生」とされた特攻に出撃した。特攻隊員だった庭月野英樹さん(94)=宮崎市=も、配属前に共に教練を受けた同期生7人を特攻で亡くした。23日、今年も沖縄慰霊の日が巡る。75年前、死と向き合った日々に何を考えたのか。

 庭の緑を夏日の太陽が照らしていた。今月8日、庭月野さんは白い花をつけた鉢植えのジャスミンに目を細めた。「植物の成長が毎日の楽しみ。生きているなら、やっぱり楽しく生きなきゃいかんでしょう」

 1944年4月、沖縄海軍航空隊に配属された。戦争一色で物資も乏しかった内地に比べ、沖縄にはアイスや菓子もあり、のんびりしていた。だが同年10月10日、状況は一変した。

 「朝日を背に敵機がどんどん突っ込んできた。航空機はほとんど破壊された」。沖縄近海に現れた米機動部隊の空襲は9時間に及んだ。庭月野さんがいた小禄飛行場(現那覇空港)などの軍事施設や、那覇市街地の約9割が焼失し、668人が亡くなった。

 45年4月、沖縄本島に米軍が上陸。艦砲射撃や空襲による「鉄の暴風」を免れた隊員は、鹿児島県の基地から特攻や夜間攻撃に飛び立ち、多くが命を落とした。仲の良かった福岡県出身の同期生は空襲で航空機を失い、地上戦で戦死。自身は米軍上陸の直前に石垣島に配属され、助かった。

 同年5月、日本統治下にあった台湾の特攻隊へ編入された。既に実用機は残っておらず、「赤とんぼ」と呼ばれた布張りの練習機で沖縄への特攻を命じられた。遅い機体では撃ち落とされるのは目に見えていた。出撃の時を待つ中、新たな転属の命が下った。最新鋭の偵察機「彩雲」を使った千葉県の特攻隊だった。

 「どうせ死ぬなら確実に突っ込める方で行きたい。喜びを抑えるのに必死で、残る者に掛ける言葉がなかった」。彩雲をひつぎと思い定めたが、出撃前に戦争は終わった。台湾に残った同期生が隊を率いて敵艦に突入したと、後に聞いた。

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 圧倒的な物量で攻撃してくる米軍に対し、資源の乏しい日本軍は精神力で対抗しようとした。爆弾を抱え敵艦に突っ込む「必死」の特攻はその典型だ。志願の形を取っても、事実上強制だったことは元隊員たちが語り残している。庭月野さんの場合、特攻隊への2度の編入は命令だった。

 何のために、なぜ死にゆくのか。自身をどう納得させていたのか。「俺が行かないと日本を救えないという気持ちを皆持っていましたよ。米兵に親兄弟がじゅうりんされたら困るでしょう」。庭月野さんの強い口調には誇りがにじんでいた。

 一方で、特攻隊員の葛藤がうかがえる資料もある。ある部隊の戦闘詳報(防衛研究所所蔵)には「七機共、同様ナル故障生起セルトハ思ハレズ、特攻精神ニ欠クル点アリト認メザルヲ得ザルハ遺憾ナリ」とあり、特攻から4~8回も帰還した隊員にも触れている。別の隊の戦闘詳報からは、隊員が上官から「物」や「消耗品」扱いされていたことも分かる。

 この点に触れると、好々爺(や)の表情が曇った。「俺が行かなくても…、という気持ちだって人間だからある。特攻隊の話は、本当はあまりしたくないんですよ」。一億総特攻といわれた時代、若者たちはいや応なしに死と向き合わされた。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻が採用された44年10月以降、航空特攻の死者数は陸軍1355人、海軍2548人に上る。

 植物の成長を楽しむ日々をかみしめるたび、元特攻隊員の脳裏に、生を断ち切られた同期生の顔が浮かぶ。 (久知邦)

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