PCR誕生の物語が示す現実 科学技術使う現場で、欠かせぬ人間の試行錯誤

西日本新聞

 新型感染症の蔓延(まんえん)は、ウイルスだけでなく、あらたな科学技術とどう生きていくか、という問いを私たちに突きつけている。いまや多くの人が毎日のように耳にする「PCR検査」も、そのひとつだ。

 PCR=ポリメラーゼ連鎖反応は、1980年代に米国のバイオテクノロジー企業、シータス社で「発明」された。ポリメラーゼという自然の酵素を使い、DNAなどを短時間で急速に増幅させる技術だ。

 文化人類学者ポール・ラビノウは『PCRの誕生』という民族誌(エスノグラフィ)で、その舞台裏を克明に描いている。現代の人類学は、こんな科学技術の現場もフィールドにする。

 シータス社の研究員だったキャリー・マリスは、PCRを発明した功績で93年にノーベル化学賞を受賞した。ところが、この「発明」の経緯は単純ではない。PCRの概念を思いついたのはマリスだが、彼自身も「すでにあった複数の要素を合体させた」と語るように、PCRを構成する技術は既存のものだった(実際、特許無効の訴訟も起きた)。しかも、マリスのアイディアから特定の技術を組み合わせて実用化させたのはシータス社の技術者たちだった。

 そもそも当時、バイオテクノロジー産業が発展した背景には、大学と企業の交流の活発化やそれを支える国の政策転換、膨大な研究費や投資マネーの流入があった。人類学者にとって、それはバイオサイエンスという研究すべきあらたな生活様式の出現だったのだ。

 ラビノウは、当時の関係者に生い立ちから研究に関わった経緯などをインタビューする。PCR誕生の過程がそれぞれの視点から語られると、まるでいろんな遍歴をへたいくつもの人生の偶然の出会いが「発明」を導いたかのようだ。まさに人間くさいドラマに満ちている。

 はみだし者だったマリスは、社内でまったく人望がなかった。チームワークを嫌う彼は、たびたび上司や同僚と衝突した。83年8月に社内のセミナーで初めてPCRの発表をしたときも、大半の者は途中で退席した。彼が無謀なアイディアを吹聴するのはよくあることだった。

 84年6月の研究集会のあと、マリスが同僚と怒鳴り合いのケンカになった。研究員たちはマリスを解雇するよう、強い要請を出した。彼をシータス社に誘った上司のトム・ホワイトは、みんなの不満をよそにマリスを責任者からはずすかわりに、PCRの研究を続ける時間を与えた。ただ、多くの者は見込みがあるとは思っていなかった。そもそも何の役に立つのか、その用途も明確ではなかった。

 別の責任者が率いる研究グループでPCRの実験が重ねられた。そこで博士号をもたない腕のいい実験助手たちが半年かけて実験を成功させる。だが成果の公表をめぐって混乱は続き、結局、マリスは退社。やがて別の内部対立なども起きて経営が傾き、91年、シータス社は買収され、PCR技術も売却された。

 天才科学者が独創的なアイディアを思いつき、難問が解決される。誰もがそんな逸話が大好きだ。でも科学技術の「発明」には無数の偶然の出来事が絡み合っている。人類学は、その複雑な現実を複数の異なる文脈をふまえながら解きほぐそうとする。

 PCRは何かの問題を解決するために考案されたのではなく、実用化されたあとに適用できる問題が出現した。ラビノウはそう指摘する。しかも、私たちはその「発明」が問題をすぐ解決するわけではないことも知っている。新型ウイルスに対してどの程度PCR検査を実施すべきか、検査体制や人員の配置、陽性者の扱いなど、各国の対応は分かれ、議論が続いている。

 役に立つ学問をすべきだという風潮は根強い。だがPCR誕生の物語は、何がどう役立つのか、一概には決められない現実を示している。発明のプロセスが人間的なドラマになるように、その技術を使う現場でも、感情をもった生身の人間どうしの泥くさい試行錯誤や調整が欠かせない。科学技術は人間の顔をしている。それが、科学が人類学の問いになる理由でもある。

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 松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)1975年、熊本市生まれ。岡山大准教授(文化人類学)。京都大大学院博士課程修了。エチオピアでフィールドワークを続け、富の所有と分配などを研究。「うしろめたさの人類学」で毎日出版文化賞特別賞。近著に「これからの大学」「はみだしの人類学」。

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