あの日、何を報じたか1945/6/21【敵の無差別爆撃激化 昨早暁B29六十機 福岡を焼夷攻撃 一部は関門に機雷投下】西日本新聞の紙面から

西日本新聞 福間 慎一

 〈西部軍管区司令部発表(昭和二十年六月二十日六時)一、マリアナ基地の敵B29約六十機は六月十九日二十二時三十分ごろより六月二十日零時三十分ごろまでの間、宮崎県東方海面より単機または少数機編隊をもって逐次に九州本土に侵入、約二時間にわたり福岡市に対し主として焼夷弾による攻撃を実施せり。二、別に同時ごろ豊後水道より侵入せる敵B29約十機は、関門付近に機雷を投下せり。三、福岡市内各所に火災発生せるも、軍官民の敢闘により二時三十分ごろまでにその大部はおおむね鎮火せり〉

 「福岡大空襲」を伝える紙面はまず、軍の発表がトップに据えられた。自社による記事は〈二時間にわたり暴爆 重要施設ほとんど被害なし〉の見出しで、高度2千~5千メートルから、6ポンド油脂焼夷弾や100ポンド焼夷弾を投下したとみられると説明している。その上で〈わが地上制空部隊は的確に各機を捕捉、地上砲火の猛攻を浴びせ、軍官民一致の消火活動によって重要施設にはほとんど被害を及ぼさなかった〉と報じた。

 実際はどうだったか。福岡市内では少なくとも2千人が死傷・行方不明、1万4千戸超が焼失した。電気、ガスなどのインフラはほぼ焼損し、旧福岡城内の陸軍歩兵第24連隊の兵舎が全焼。約32万人が暮らす大都市は深刻な打撃を受けた。一方で、空襲を実施した米第20空軍第21爆撃兵団は「数多くの火災が認められ、良い結果を示している」と軍に報告。また、紙面では〈地上砲火の猛攻〉と表現された日本側の反撃について、同兵団は「敵の対空砲火はたいしたことはなく、一般的に不正確だった」と総括している。

■市民は〈消火に特攻魂爆発 毅然・婦人消火班の姿〉

 福岡での大空襲を伝えた1945年6月21日付の西日本新聞。2ページは空襲下の市民の姿や、行政の対応についてたたえながら詳報している。〈初期防火に殊勲〉という記事では、市民の声が記録されている。

 〈料理店街の○○町は狭い道路を隔てた向かい側に数十発の焼夷弾が落下。一帯は猛火に包まれ町内全滅の危機に瀕したが、これを目撃した○○町内会長西勝太郎さん(五五)と同町六隣組長吉浦太兵衛さん(四九)は一物も持ち出さず、燃えるわが家を捨て狭い路道を吹きまくる火焔をくぐって、女ばかりの隣組防空員を指揮して○○町内一角を無事に救うことができた。その指揮者の一人吉浦さんは語る。「やればできないことはありません。こんな狭い道路でもあの猛火を食い止めることができるのです」〉※○○は紙面のママ

 戦災者支援の状況について、福岡市当局にも取材している。食料については〈さしあたり朝食として乾パン二袋を配給。昼食からは炊き出しを開始した。夕食からは炊き出しと共に漬物も配給した。味噌、醤油、塩は二十一日から三日分を無料で配給。このほか佃煮も無料で配給する〉とあり、官も民も苦闘していた。

 そのほかの市の対応は次のようなものだった。▽医療=〈市立病院も健在だし安心してもらいたい〉▽衣料=〈これから夏季になるので今すぐ配給する物はないが、そのときがくれば手当てするので心配かけない〉▽住居=〈戦災者には現在、残存家屋に分散して入ってもらうつもりだが、また寺院ほか余裕ある残存家屋に居住してもらう。市でも目下この事態を予想して市営の戦災者収容所を計画建設中である〉

 福岡専売局が、戦災証明書を持参すれば岩田屋など3カ所でたばこ50本を特別に配給することも記されている。(福間慎一)

PR

社会 アクセスランキング

PR

注目のテーマ