味方に殺されたなんて…沖縄戦、17歳少年兵の残酷な最期

西日本新聞 一面社会面 高田 佳典

つなぐ沖縄戦(上)

 茶封筒から取り出した一枚のモノクロ写真。丸刈りの少年とセーラー服を着た少女たちが緊張した面持ちで並んでいる。裏には「昭和拾八年卒業生 18名 三月廿八日 高江洲義英(たかえすぎえい)」と記されていた。

 「運良く焼け残った兄の写真。幼いでしょう」。那覇市の高江洲義一(ぎいち)さん(82)は写真を見つめながら語り始めた。兄は昭和18(1943)年、写真に写る仲間と国民学校高等科を卒業。1年7カ月後に少年兵となり、沖縄本島北部の山中で命を落とした。17歳だった。

 10歳離れた兄と遊んだ記憶はほとんどない。ただ、米軍が本島に上陸する数カ月前、訓練の合間に沖縄県東村の実家に一時帰宅した日ははっきりと覚えている。

 「当時珍しかった2色刷りの絵本を買ってきてくれてね。インキのにおいは頭を離れないさあね」。軍服姿の兄は軍靴を棒に引っ掛け、はだしだった。「靴擦れを起こしたんですよ。ほとんど履いたことがないから」。目の前の海で捕れたタコを湯がき、家族でつついたのが最後の晩餐(ばんさん)となった。

 戦後、兄は骨となって戻ってきた。砲弾が当たり破傷風で死んだと聞いた。「畑作業に出ては兄の帰郷を待ちわびた母の姿が忘れられない」。既に2人の子を沖縄戦で失っていた母は頭蓋骨を抱いて泣き崩れた。

 沖縄では三十三回忌で供養を一区切りする風習がある。節目の1977年6月に営まれた慰霊祭で、いつもは冷静な父が取り乱した。兄の元上官に詰め寄り「子どもを殺したのにあなたは生きているのか」と泣き叫んだ。「殺した」という言葉が心に残り続けた。

 2013年、本島北部を巡る平和学習バスツアーに参加した。兄が死んだとされる恩納村に近づき、座席から身を乗り出してガイドに尋ねた。「兄は護郷隊でした。どこで、どんな死に方をしたか知りませんか」

 この時、ガイドを務めていたのが名護市教育委員会市史編さん係の川満彰さん(60)。彼は、まさに少年ゲリラ部隊「護郷隊」の調査中だった。 

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