将校の機転で救われた命…「失郷民」の願い 朝鮮戦争開戦70年

西日本新聞 国際面 池田 郷

 朝鮮半島の分断を決定的にした朝鮮戦争は25日、開戦から70年を迎える。韓国西部の仁川市で衣料品店を営む李春花(イチュンファ)さん(84)は故郷の北朝鮮から韓国へ逃れた70万人超といわれる「失郷民(シリャンミン)」の一人。戦場を逃げ惑う中で母が爆撃の犠牲となり、残った家族は幸運にも北朝鮮軍将校の機転によって命を救われた。長い時を経て老いを深める失郷民は民族統一の日を待ち焦がれる。

■泥沼の攻防

 開戦当日、李さんは非常事態を知らせるサイレンが鳴り響くのを聞いた。あわてて自宅に身を隠したのを覚えている。当時14歳。両親、兄2人、妹2人と北朝鮮南西部の延百郡の農村で暮らしていた。

 北朝鮮は1948年の建国後、領域内で共産主義の浸透を徹底した。李さんの村は韓国との境界だった北緯38度線に近く、開戦前から重苦しい空気が漂っていた。兵士が早朝に住民を集めて軍歌を歌わせたり、朝鮮労働党の入党名簿に強制的に押印させたりした。

 軍は開戦後、住民らへの統制をさらに強めた。李さんは「平壌周辺に移住しろという軍の命令に逆らい、兵士に銃身で殴られる人たちを見た」と振り返る。

 1950年6月25日、北朝鮮軍の奇襲攻撃によって戦争が始まった。北朝鮮軍はわずか3日で韓国の首都ソウルを占領。一時は南部の釜山周辺まで進撃したが、50年9月に韓国を支援する米国などの国連軍が仁川に上陸して戦況は一転。同年10月には中国軍が北朝鮮側の援軍として参戦して泥沼の攻防を続け、53年7月に休戦協定が結ばれた。

■重要な機密

 共産主義に疑問を持った李さん一家7人は50年11月、韓国への避難を決意。村人と一緒に木造船で海にこぎ出し、仁川へ渡った。

 一家は戦火を避けソウル近郊を転々とした。安山市の防空壕(ごう)に身を寄せていた51年1月、母が北朝鮮軍の爆撃で亡くなった。長女の李さんは母代わりとして家族の世話に追われた。

 ある日、夜中に煮炊きをしていた時だった。背の高い北朝鮮軍の将校が現れ「飯を食べさせてほしい」と李さんに懇願した。李さんは米飯とキムチを差し出した。将校はその後も何度か訪れ、李さんや村人たちと親しくなった。

 ある時、将校は李さんたちに重要な軍事機密を明かした。「安山は戦闘が激しくなる。10日ほどしたら仁川へ逃げろ。山道でなく、畑のあぜ道を行け」。一家はあぜ道を駆け、難を逃れた。回避した山道では激しい爆撃が行われたという。

 将校は李さん一家が共産主義を嫌って北朝鮮から逃げた「裏切り者」だと気づいていた。なぜ助けてくれたのか。李さんは「ご飯のお礼だけでない」と思う。将校はひそかに忍ばせた聖書を見せてくれた。宗教は北朝鮮ではご法度だ。

 韓国軍は開戦直後、北朝鮮軍の攻撃を受けて敗走する際、ソウルの漢江にかかる橋を爆破。多くの人々が巻き添えで死んだ。漢江の北側に取り残されて北朝鮮軍に捕まり、強制的に徴兵された人も少なくなかったという。信仰を胸に抱いたあの将校もまた、心ならず戦場で銃を握らされた犠牲者だったかもしれない。

 戦況はさらに変転し、一家は安全と食料を求めて一時はやむを得ず北朝鮮の故郷に戻ったこともある。51年6月、現在の軍事境界線に接する韓国側の江華島に流れ着き、そこで休戦を迎えた。

■故郷の土を

 李さんは22歳の時に韓国軍人と結婚。60年代半ばに退役した夫の退職金を元手に、失郷民が集まる仁川の通称「ヤンキー市場」に小さな店を買った。在韓米軍から放出された軍服を加工販売した。懸命に働き、2男1女を育て上げた。

 2000年、当時の金大中(キムデジュン)大統領と金正日(キムジョンイル)総書記の南北共同宣言を機に、北朝鮮南西部の開城などへの旅行が認められた。李さんやヤンキー市場の仲間たちも「平和統一が一歩近づいた」と期待を膨らませた。07年、李さんは日帰りで開城を訪れた。開城は故郷とも近い。「いつか故郷の土を踏みたい」。思いは強まった。

 だが南北の蜜月は長くは続かなかった。08年7月、韓国人観光客が北朝鮮軍兵士に射殺される事件が起き、開城や金剛山の観光事業は途絶えた。18年には金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長が文在寅(ムンジェイン)大統領やトランプ米大統領と相次ぎ会談したが、具体的な成果はないまま交渉は暗礁に乗り上げている。

 かつてヤンキー市場にあった約90店舗の半分は失郷民が営んでいた。今では高齢化が進み、他界した店主も多い。営業しているのは李さんの店を含め2軒だけだ。老朽化した市場は再開発が予定され、李さんも近々店をたたむつもりだ。

 李さんの故郷は朝鮮半島で有数の穀倉地帯だった。「もう行けないんだろうね」。秋風に吹かれた稲穂が波打つ光景が今も脳裏に浮かぶ。 (ソウル池田郷)

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