「24万人の名前が沖縄戦の語り部」 戦没者調べた89歳男性

 大粒の雨は、75年前の沖縄戦で失った最愛の人を悼む涙のようだった。慰霊の日の23日を迎えた沖縄は、各地で慰霊祭や追悼式が営まれ、鎮魂の祈りに包まれた。戦争への憎しみも、心の痛みも消えることはない。生き残ってもなお自責の念にさいなまれてきた戦争体験者たちは、命の限り語り残す覚悟を口にする。その姿を間近で見続けた戦後世代もまた、未来へとつなぐ決意を新たにした。 

 24万人を超す戦没者が刻まれた「平和の礎(いしじ)」は、前日から降り続く雨にぬれていた。大切な人の名を指でなぞり涙を流す人。子や孫に亡き人の思い出を語る人。戦後75年がたっても傷が癒えることはない。「平和の礎は永久に戦争をしないという県民の決意だ」。建立に携わった大城藤六さん(89)=糸満市=の言葉に、力がこもった。

 国民学校高等科の卒業式が行われた1945年3月24日、米軍の艦砲射撃が始まった。防衛召集されていた父を除く祖母、母、4人の妹と集落の避難壕(ごう)に隠れた。5月下旬、日本兵が現れた。「国を守るのは軍人。戦をしない皆さんは出て行ってくれ」。住民全員が壕を追い出された。

 一族27人で隠れた先祖の墓に米軍の砲弾が直撃。祖母を含む16人が即死だった。その後も親族は次々と犠牲になり、負傷した6歳の妹は破傷風で、黄リン弾の煙を吸った1歳の妹も治療中に亡くなった。父も戦死した。終戦翌年の6月に営んだ法要では、人数分用意したお供え物がちゃぶ台に載りきらなかった。

 戦後、教員として働く傍ら、郷里の戦争体験の聞き取り活動を始めた。日本兵が老婦人や子どもを虐殺した事実も掘り起こした。「心の傷は深く、聞き取りは困難だった。まだまだ語られていない事実があると思った」

 91年、当時県知事だった大田昌秀さんが戦後50年の記念行事として平和の礎の建立を表明した。「敵も味方も、国籍も関係なく全戦没者の名前を一覧にして、戦争の愚かさと平和の尊さを浮き彫りにしたかった」。当時、県庁職員として平和の礎事業を担当した比嘉博さん(68)=宜野湾市=は大田さんの狙いを語る。

 沖縄戦の象徴の建立は一筋縄ではいかなかった。県民の4人に1人が犠牲になった惨劇。戸籍も焼失していた。戦後につくられた戸籍や戦没者名簿は「抜けが多かった」(比嘉さん)。「誰一人漏らさない」という方針の下、県内全ての戦没者を調べることになった。

 大城さんは調査員に手を挙げた。地元集落のおよそ3分の1に当たる59世帯が一家全滅、21世帯は両親を失い、23世帯は1人だけ生き残っていた。一軒一軒回り、隣近所に誰が住んでいたかを聞き取る。「確か、子どもがいたけど名前が分からないということもあった」。親の名前をとって「○○の子」と記録した。この積み重ねが、平和の礎となった。

 今年は新たに30人の名前が追加され、刻銘者は24万1593人になった。戦後75年を経ても刻銘希望者は絶えない。「戦争体験者がみんな死んでも、ここに刻まれた24万人の名前が沖縄戦の語り部になってくれるよ。膨大な死者を前にすれば、誰も戦争を肯定することはできない」 (那覇駐在・高田佳典)

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