平野啓一郎 「本心」 連載第283回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 酒も一応、避けた。迷った挙(あ)げ句に時間がなくなり、最後に焦って決めたものの、考えるほどに、子供じゃあるまいし、ゼリーなど食べないだろうと、酷(ひど)い間違いをした気がした。

 あまりに多くのことを、彼に尋ねようと抱え込んでいた。僕は緊張していた。施設は、築十年くらいの五階建てで、一見すると、普通のマンションのようだった。約束は二時だったが、七分ほど早く着いたので、一旦(いったん)、建物を素通りして時間を潰(つぶ)した。少し先まで歩いて戻って来ると、歩いたせいというばかりでもなさそうな大きな心拍を感じた。

 受付で面会の約束を告げると、書類に名前や住所を書かされた。

「藤原先生ですね。――はい、石川朔也(さくや)さん、どうぞ。」

 職員が、僕を彼の部屋まで案内してくれた。ロビーにはピアノが置いてあったが、人気(ひとけ)がなく、奥の食堂らしい部屋では、介助を必要とする老人たちがゆっくり食事をしていた。

「――出版社の方ですか?」

 と、エレベーターに乗って、しんとなった後に職員に尋ねられ、僕はただ、「いえ。」とだけ答えた。

 部屋は四階で、廊下では数名の職員が各部屋の掃除をしていた。

 呼び鈴を鳴らすと、紺色のセーターを着た藤原本人が、スリッパを履いて出てきた。

「先生、約束のお客様です。」

「ああ、降りて行くつもりだったんだけど。」

「初めまして。ご連絡差し上げた、石川朔也です。」

「藤原です。遠くからわざわざ、ありがとうございます。」

 職員は、そのまま挨拶(あいさつ)をして立ち去った。

 メールでやりとりしていたせいもあってか、藤原は、丁寧に、温和な態度で迎えてくれた。

 理知的で隙のない彼の小説の印象そのままの、黒縁の四角い眼鏡をかけていたが、目は穏やかだった。背は、僕と変わらない。数秒間、つくづく僕の顔を見ていたあと、「どうぞ、靴のままで。狭いですけど。」と中に招き入れてくれた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ