戦争は川柳人も命絶ち

西日本新聞 オピニオン面 上別府 保慶

 「ニュース川柳」など、本紙の川柳欄で投稿の数が目立って増えている。1強政治に迎合し、コロナ禍に迷走する政治家や官僚たちを風刺する句が多い。

 今は自由にものが言える。戦前には「ざん壕(ごう)で読む妹を売る手紙」などの句を作って弾圧され、29歳の若さで死んだ川柳人がいた。石川県出身の鶴彬(つるあきら)。本名は喜多一二(かつじ)である。

 鶴彬は1908(明治41)年、貧しい竹細工職人の家に生まれた。成績は優秀だったが、師範学校への進学はあきらめ、家業を助けた。マルクス主義の本を読みふけり、好きな川柳を地元の新聞へ投稿した。

 30(昭和5)年、兵役で金沢市の陸軍歩兵第7連隊に入営した。非合法の印刷物「無産青年」を所持し、反軍思想を宣伝したとして軍法会議にかけられた。

 法廷で自分の思想を説明せよと促され鶴彬は言う。

 「天皇の大御稜威(みいつ)(威光)を下万民に及ぼすことであります。すなわち文化を全国民が等しく享受できるような国にすることであります。しかるにこれを途中に遮らんとする財閥、軍閥を雲散霧消しようとするのが私の意見であります」

 そこで弁護士が「かくのごとき忠君愛国の士を…」と巧みに擁護し、検察官はしばし言葉に詰まったという。川柳人らしく鶴彬は機知に富んでいた。

 軍の刑務所で1年8カ月の刑に服して除隊。親族から縁を切られて上京し、赤貧の中で川柳誌に句を寄せ続けた。以下は当時の女性が置かれた人身売買や工場の悲惨な状況を描く句だ。

 凶作の村から村へ娘買い/初恋を残して村を売り出され/吸いに行く姉を殺した綿くずを/監督に処女を捧(ささ)げて歩を増され

 次は泥沼の戦場に立たされた兵士の思いを描く句。

 屍(しかばね)のゐ(い)ないニュース映画で勇ましい/手と足をもいだ丸太にして返し/胎内の動き知るころ骨がつき

 37年12月、鶴彬は仲間の世話で就職した業界紙「木材通信社」に出社したところを、特高警察に逮捕された。長崎県など各地で同人が取り調べを受けたが、警視庁による鶴彬への対応は特に過酷だった。留置場で赤痢を患い、38年9月に息を引き取る。召集令状が届いたのはその翌日だった。

 他の川柳団体には、鶴彬らの句を非愛国的と非難するものがあった。「反省せざる場合は別の手段によって善処したい」と宣言した。今日、警察への密告が鶴彬の非業の死につながった可能性が指摘されている。

 今回の話は、鶴彬を慕う郷土の川柳人と実の妹による「川柳人・鬼才『鶴彬』の生涯」(岡田一杜、山田文子編著、日本機関紙出版センター)を参考にしている。23年前の本だが、ネット通販で手にできた。

 (特別編集委員・上別府保慶)

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