平野啓一郎 「本心」 連載第284回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 簡単なキッチンを抜けると、ベッドと三人掛けの丸テーブル、それに焦げ茶色のソファが置かれていて、それでいっぱいになる程度の広さだった。壁には、『マレーヴィチ展』のポスターが貼ってあった。あとで聞いたが、今開催中の展覧会の図録に寄稿しているらしい。

 木製の小さな棚には、グラスやコーヒーカップだけでなく、ウィスキーのボトルも並んでいた。窓が大きく開いていて、民家越しに砧公園が見えた。

 僕は、テーブルの椅子を薦められて腰掛けた。藤原は、「駅からわかりにくかったでしょう?」などと話しかけながら、マシンでコーヒーを淹(い)れ、チョコレートと一緒に出してくれた。もう八十近いはずだが、自分の今の体なりに過不足のない動きだった。

 座って向かい合うと、藤原は、

「今、幾つ?」

 と尋ねた。

「今年、三十歳です。」

「そう? 若いなあ。お母さんに似てるね。優しい目許(めもと)が、特に。」

 僕は、頷(うなず)くような、礼を言うような――なぜか――具合にちょんと頭を下げると、コーヒーを一口飲んだ。そして、渡すタイミングを逸していた菓子箱を紙袋ごと差し出した。

「ああ、わざわざ。――ありがとう。」

 藤原は、そう言って中をちらと覗(のぞ)くと、開けてみずに小脇に置いた。職員に編集者なのかと尋ねられたが、そういう来客用に出すのかもしれないと思った。

「お母さんは、昨年亡くなったんですか?」

「そうです。」

「そう、……残念だね。一年くらいだと、あなたも寂しいでしょう?」

「はい、……でも、大分慣れました。」

「今は、一人暮らしなんですか?」

 僕は何と答えるべきかわからず、「はい。」と頷いた。そして、その曖昧な嘘(うそ)から急いで遠ざかろうとするように、「あの、……先生は、……」と語を継いだ。

「さんでいいですよ、先生じゃなくて。」

「――はい。……あの、藤原さんは、……母のこと、どの程度、ご存じだったんでしょうか? 母は、先生のファンだと申してましたが、……」 

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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