兵役終了のはずが…制度廃止で立場一変 翻弄された教師たち

西日本新聞 長崎・佐世保版 平江 望

 長崎県対馬市の自宅で古いアルバムをめくる。県師範学校(現長崎大教育学部)の仲間たちと写真に納まる父親の姿を改めて眺めた。丸坊主で学生服に身を包みまだ若さがうかがえる一方、あぐらをかく姿からは大人の雰囲気も漂う。

 1920年生まれ。島内で小中学校の教師を務め、地元対馬の歴史や民俗学研究に尽力した。5年前に死去したが、生きていれば今年100歳。写真の撮影当時は、日中戦争が既に始まり、そして太平洋戦争に突き進むころだ。

 そんな永留久恵さん(享年94)の青春時代や当時について、晩年を一緒に暮らした永留さんの次男史彦さん(66)はこう振り返る。「大正デモクラシーが過ぎ、社会が軍国主義一色に染まっていく時代。もろにその空気を吸って育ったのが父」

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 対馬北西部の上県町志多留の出身。さほど裕福ではない家庭の末っ子で、尋常小学校卒業後は親から「上級学校には行かせてやれない」と言われていた。だが台湾で警察官をしていた13歳年上の長兄から呼ばれ、現地の小学校高等科に進学することができた。

 授業では、近く世界を敵に回すような戦争に突入する可能性があり、その覚悟を持つよう教えられた。「軍国少年に育つ心がけを諭された」と後の著書で述懐している。島育ちの永留さんは「軍隊に入るなら海軍」と決めていた。

 台湾から故郷に戻り、教師になるため学費が支給される師範学校に進む。一方、40年に卒業して教員になると同時に徴兵検査を受け、海軍に合格。翌年には佐世保海兵団に入り、基礎訓練を受けた。

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 師範学校卒の兵士は、一般の兵士と比べて兵役が優遇された。「短期現役兵(短現)」と呼ばれる制度で、一つ上の学年までは、入隊して5カ月間の訓練を受ければ兵役終了と見なされ召集されなかったという。

 ただ太平洋戦争前のこの頃になると兵士が足りなかったのか、制度は廃止された。永留さんらも他の兵士と同じく前線に送り出される立場になった。それまでは考えられなかった師範学校卒の戦死者も大勢いた。

 「日本は中国などに戦線を拡大し、全てが不足していた」。史彦さんは生前の父親からこんな話を聞いたことがある。既に日中戦争で兵士や物資が不足する中、今度は米国などを敵にする無理な戦況が透ける。

 短現は廃止されたが、永留さんは教練や兵営の中で、「海軍バット」でたたかれる体罰などは受けず、戦時も敵と直接砲火を交える部署には回されなかったという。「師範学校卒として、少しだけ優遇されたのかもしれない」と史彦さん。

 その後、戦艦霧島に配属され、41年11月に佐世保港を出港。臨戦準備はしていたが、わずか3週間後に太平洋戦争の戦端となる米ハワイ・真珠湾に向かうとは知る由もなかった。

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 対馬を代表する歴史研究者で、初の名誉市民でもある故永留久恵さんは、ちょうど1世紀前に生まれた。もともと教師だが太平洋戦争では真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に従軍。生きて帰り、その後は隣国との友好を唱えた。残した著書や史彦さんが伝え聞く話を通じて戦禍がもたらした世情を振り返り、いまの平和を見つめる。

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