平野啓一郎 「本心」 連載第285回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

「あなたのお母さんとは、昔、よく会ってました。月に一、二度、八年間くらい。」

 藤原はその質問を、当然、予期していた風で、正直に語っている様子だった。仕事の関係とも友人関係とも言わないまま、そこで口を噤(つぐ)んだので、僕も流石(さすが)に、その意味するところを察した。憶測(おくそく)通りだったことに却(かえ)って驚いた。

 会うなり、いきなり始めるような話だろうかと憚(はばか)られたが、聞きたいことがたくさんあり、率直に尋ねなければならなかった。藤原の答えも、明らかに、僕に質問を促していた。

「いつ頃ですか、それは?」

「もう随分と前ですよ。あなたが小学生の頃までは、よく会ってました。あなたには会ったことがなかったけど。」

 藤原は、ゆっくりとクッションを挟んだソファの背もたれに体を預けた。

 僕は、当時の母の横顔を思い返そうとしたが、咄嗟(とっさ)のことで、まったく朧気(おぼろげ)でしかなかった。それでも、二人の逢瀬(おうせ)を想像して、僕が終(つい)に知ることのなかった母を、街中で偶然、目にしたような奇妙な感じがした。

 藤原のしみの多い、骨張った手の甲を見ながら、愛人も歳(とし)を取るのだ、という、珍妙な一文が心に浮かんだ。そして、「愛人」という呼称でいいのだろうかと考えた。

 母は既に死んでいる。そして、母と肉体的な喜びを分かち合った男性は、今は老体となって、老人ホームの一室で、僕の目の前に座っている。――その単純な事実に、何となく胸を打たれた。

「藤原さんは、……ご家族は?」

「妻は他界しましたが、息子と娘が一人ずつ。どっちも今は、海外で働いているので、会うのは年に一回くらいですが。……もう四十三歳と四十一歳かな。孫もいますよ、どっちにも。」

「……そうですか。」

 僕は、胸に嫌なものを感じて、恐らく嫉妬だと気がついた。それを打ち消そうと、またコーヒーに口をつけたが、カップを皿に戻す時に、震えるような音がしたことを恥じた。

「藤原さんが、母と会ったのは、僕が生まれたあとなんですか?」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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