撃沈した空母飛龍から生還した父 「命救われた」艦長の命令

西日本新聞 長崎・佐世保版

 戦艦霧島は、永留久恵さんら大勢の乗員を乗せて南下した。当時乗員たちはいつ、どこで戦闘に入るのか知らされないまま。大隅半島の佐多岬を回り太平洋に出ると、全員に甲板集合の号令が掛かり、陸上との通信禁止を告げられた。戦争が近い、そう感じた。

 一度北上した後の1941年12月8日、その時が訪れた。霧島を含む艦隊はハワイ西北の海上にいたが、日付が変わった未明の艦内に「総員起こし」の号令が響く。明け方に近くの航空母艦から戦闘機や爆撃機が真珠湾に出撃した。霧島から見送った永留さんは「脳裏に深く刻まれ、忘れられない」と著述している。

 やがて、出撃機から「ワレ奇襲ニ成功」との電信を傍受。艦内に歓声が上がった。攻撃を終えて戻った山口県・柱島では、同僚らと盛大に祝って美酒に酔った―という。だが攻撃後について「わが方は、米軍の態勢立て直しの早さに気付いていなかった」とのちに次男史彦さんに悔いている。

   ◇    ◇

 半年たった42年6月。今度は、日本が劣勢に転じる中部太平洋のミッドウェー海戦に空母飛龍の一員として臨む。海軍の大型空母4隻が撃沈され、大敗した戦いだ。それを生涯、史彦さんらに繰り返し語った。

 空母のうち、最後まで残った飛龍も爆弾がさく裂。甲板は裂けて穴も開き、航行不能に。顔が焼けて戦死した同期兵もいた。犠牲者は400人近くに上った。

 永留さんは艦中心部にある計器類が集まる堅固な場所で任務に当たった。ハッチが開かず閉じ込められたが天皇のご真影を取りに来た兵士に外側から開けられ、命をつないだ。接舷した味方の駆逐艦にまず負傷兵が降ろされ、他の生存者も縄ばしごで乗り移った。 その直前、総員退艦を決めた艦長は、全員を甲板に集めてこう述べた。「飛龍を沈める責任は自分が背負ってともに沈む。皆は生きて国のために働け」と。一緒に艦に残ろうとする副長には「負けて帰ると風当たりが強い。部下の面倒を見てくれ」と命じた。艦長は空母と太平洋に沈んだ。

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