完全試合をくらった球団

西日本新聞 オピニオン面 永田 健

 1950年6月28日、ちょうど70年前のきょう、青森市営球場で日本プロ野球史に燦然(さんぜん)と輝く記録が生まれた。読売ジャイアンツの藤本英雄投手が史上初の完全試合を達成したのだ。

 相手チームを1人も塁に出さずに抑える完全試合は、日本のプロ野球で15回しか記録されていない。

 ただ、今回はこの偉業を成し遂げた側ではなく、達成されて不名誉な役どころとなったチームの方にスポットを当ててみたい。

 福岡を本拠地としていた西日本パイレーツだ。親会社は西日本新聞社だった。

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 西日本パイレーツは、この1シーズンだけ存在した「幻の球団」である。1リーグだったプロ野球が同年から2リーグで戦うのに伴い結成され、セ・リーグに参加した。このシーズン50勝83敗3分けで、リーグ8球団中6位に終わった。

 シーズンオフにセ・リーグの再編騒動に巻き込まれ、51年のシーズン前にパ・リーグの西鉄クリッパースと合併し西鉄ライオンズとして再出発した。その後ライオンズが華々しく活躍し福岡の誇りとして語り継がれる一方、パイレーツは人々の記憶から消えた。

 わが西日本新聞にとっても、どうもこの球団経営の失敗は「黒歴史」の扱いだったフシがあり、社内にも資料がほとんど残っていないのだ。何というか、調べていて実に不憫(ふびん)に思えてくる球団なのである。

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 完全試合の話に戻る。

 この時のパイレーツの監督は六大学野球の名選手で、大阪タイガース(当時)などで活躍した強打者の小島利男(1913~69)。選手登録もしていた。

 九回2死の土壇場。藤本の好投になすすべもない選手たちを見て、小島は自ら代打に立つ。ここで打てばカッコよかっただろうが、小島は三振に倒れ、かくして大記録は達成された。

 小島は最後にどうして自分で打席に立ったのか。小島の妻で松竹歌劇団のスターだった千鶴子さんは、回顧録で「自分の力を過信した」と「不名誉な記録を選手たちに負わせたくなかったので身代わりで出た」の両説があったとしている。

 東京ドームに併設する野球殿堂博物館にこの試合の公式スコアの写しが展示してある。目を凝らせば「小島利男 打数1 三振1」の記録が読み取れる。

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 意外な人物がこの試合について書き残している。昭和の時代にカリスマ的な人気を博した劇作家で歌人の寺山修司(1935~83)だ。青森を故郷とする寺山は、中学生時代に完全試合を観戦したとみられる。

 自伝的著作「誰か故郷を想(おも)はざる」に寺山らしい屈折した文章がある。「『けちでちっぽけな町のけちな野球場』で、わが国で初めての大記録が立てられたことが私には嬉(うれ)しかった」

 ただ、寺山はおかしなことも書いている。「相手は白石の率いる西日本軍で、藤本のスライダーに手も足も出なかったのだ」

 パイレーツの監督は小島だ。「白石」とは当時広島の人気選手だった白石勝巳だろう。同じ日に青森市営球場で広島の試合も行われており、両試合を見た寺山が混同した可能性が高い。

 せっかく寺山の作品の中に名を残しながら、そこで堂々と誤記されている。その辺もやはり不憫である。

 (特別論説委員・永田健)

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