平野啓一郎 「本心」 連載第287回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 僕は、膝に置いた掌(てのひら)に汗を感じながら尋ねた。藤原は、微(かす)かに音を立てる補聴器の具合を気にしながら――僕はそれに、この時、初めて気がついた――首を横に振った。

「誰かはわかりません。僕は事情を知っているだけです。」

「母は僕には、東日本大震災のボランティアで知り合った男性と恋愛関係になったと言ってました。その人の考えで、籍は入れずに事実婚だったけど、僕が生まれたあと、結局、三年後に別れてしまった、と。僕は、その人のことはまったく覚えていません。」

「あなたのお母さんが、震災のボランティアに参加していたのは、本当だと思います。ただ、その時に親しくなったのは、女性なんです。」

「女性、……ですか?」

 僕は目を瞠(みは)った。藤原は誤解の余地なく頷(うなず)いた。

「気が合って、友達になったようです。同じロスジェネで、どちらも正社員だったから、世間的には羨(うらや)ましがられる立場でしたけど、それだけじゃない世代ですから。――特に、結婚できない、ということで共感し合ったようです。過労で、出会いもない、と。ただ、あなたのお母さんは、結婚というより、子供が欲しかったんです。四十代に差し掛かって、焦る気持ちで苦しんでいた時に、震災を経験して、直接被災したわけじゃなかったけど、やはり、死生観を揺さぶられたんでしょう。それから、どう話し合いが進んだのかはわかりません。とにかく、二人で共同生活をしながら、子供を作って育てるという計画を立てたようです。」

「あの、……それはどういうことですか? 母は同性愛者だったんでしょうか? いや、……何て言うか、同性愛者でもあったんですか?」

「僕には、違う、と言ってました。その女性に対するお母さんの本当の気持ちはわかりませんが。……ただ、心から理解し合える友達と共同生活をしながら、一緒に子供を育てたいと考えたようです。実際、そういう形態の家族も、今ではいるでしょう? 当時はまだ、珍しかったと思いますけど。」

「……ええ。」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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