中村八大編<469>「新しい時代が来る」

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 福岡県久留米市が大空襲にさらされるのは終戦直前の1945年の8月11、12日である。「久留米市史(第三巻)」には次のように記されている。 

 「(米軍機)五〇機が久留米を襲いかかってきた。急降下の爆音と、焼夷弾の投下されるザッという音を、市民は初めて耳にした(略)黒煙を吹き、火が走り、たちまち市街地は火の海と化した」 

 この大空襲の被害は死者212人、罹災戸数4506戸、被害面積は市街地のおよそ7割、と市史には記録されている。非戦闘員を狙った無差別攻撃だった。その空襲下には中村八大一家もいた。中村は14歳、旧制明善中学(現明善高校)2年生だった。 

 「真っ昼間の一時間くらいあっという間に久留米市は燃え上がった。幸い私の家は無事で、ただ、隣家の人の一人が全身やけどを負い、大騒ぎしたことを覚えている」 

 中村は本紙への寄稿文「私の心の久留米」の中で当時のことを回想している。 

 中村一家6人は44年11月に中国・青島からいったん、東京に移住した。東京で始まった空襲を避けるように、翌年初めには父の故郷である久留米市に帰った。津福本町にあった祖母の家に転がり込む形になった。 

 「外地では赤いレンガの家に住み、完全暖房でぬくぬく育っていたわれわれは、紙の障子で外気としゃ断されただけの日本家屋の寒さは、いかにもこたえた」 その家は現在、取り壊され、空き地になっている。ほどなくして、花畑の親類の家に移った。学徒動員にも駆り出された。 

 「軍需品の集散地があり、それをあっちこっちに移動するのがわれわれ中学二年生の役目だが、それほどきつい仕事ではなかった」 

 終戦。玉音放送は家で聴いた。 

 「ラジオから流れる声は不鮮明で、なんのことかわからなかったが、とにかく戦争に負けたこと、もう二度と空襲のないこと、くらいを、ばく然と感じていた」

 中村は終戦後2、3日して、筑後川の土手に一人、寝ころんだ。土手の青い草とゆったりとした流れ。現在も変わらない風景だ。75年前、中村はそこにいて「新しい時代が来る。音楽こそ私の命だ」と考えた。高揚感と解放感。湧き上がる気持ちを素直に書いている。

 「久留米の片すみから野を越え、山を駆けてどこまでもどこまでも広がる夢…本当に宇宙の果てまでも聞こえるくらいの大きな声を出したかった」 

 =敬称略

 (田代俊一郎)

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