「平和宣言」それぞれの歩み 長崎と広島、異なる成り立ち 

西日本新聞 社会面 徳増 瑛子

 8月6日に広島で、9日には長崎で、両都市の市長が読み上げる「平和宣言」からは、核や戦争を巡る世界情勢をにらむ二つの被爆地の視線や姿勢が浮かぶ。広島は市長の個性が、長崎は市民の声がストレートに反映される仕組みになっている。

広島―市長に責任、個性色濃く

 広島の初の平和宣言は原爆投下から2年後の1947年。「われら市民の熱烈なる平和愛好の信念をひれきし、もって平和確立への決意を新たにしよう」。犠牲者を慰霊し、戦争を否定する内容だ。

 長崎の宣言はその1年後に始まる。連合国の統治下にあった影響か定かではないが「わが長崎の地は、世界における原爆の基点として世界戦争に終止符を打った土地であって…」と原爆投下を容認するような表現も見受けられる。

 朝鮮戦争が勃発した50年は連合国軍総司令部(GHQ)などの指示で両都市とも式典と宣言を見送り、占領が終わった52年に両地で再開された。時代の変遷とともに、繰り返される核実験やベトナム戦争への批判も盛り込まれてきた。

 最近、両市の宣言の違いが際立った年があった。2017年7月に国連で核兵器禁止条約が成立した翌月の平和宣言。日本政府は安全保障の観点から米国の「核の傘」にとどまるとして条約不参加を表明、採択を決める本会議を欠席した。

 そんな姿勢を長崎市の田上富久市長は「被爆地は到底理解できない…核の傘に依存する政策の見直しを進めてください」と迫ったが、広島市の松井一実市長は核保有国と非保有国の橋渡し役を担うとする政府見解に触れ「本気で取り組んでいただきたい」と述べるにとどめた。昨年の宣言でも松井氏は、条約への批准を求める主体に「広島」や「被爆地」「市民」ではなく、「被爆者」という、より狭く限定した言葉を選んだ。広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の箕牧智之理事長代行(78)は「市長自らの意思と言葉で日本政府に(条約参加を)強く迫ってほしい」と訴える。

長崎―市民らの声、じかに反映

 「長崎の考え」を明確に打ち出す宣言のルーツは、1979~95年に市長を務めた本島等氏(故人)にある。就任初年に初めて米国の原爆投下の責任について「無差別に、大量の人間を殺傷した原子爆弾投下の責任はなぜ不問に付されてきたのか」と言及した。

 翌年からは市職員中心だった平和宣言の起草委員会のメンバーを被爆者医療に携わる医師や研究者に入れ替え、81年に非核三原則の揺らぎがうかがわれた際には鈴木善幸首相(当時)を名指しして「真実を国民に知らせて」と訴えた。当時を知る元市職員の田崎昇さん(76)は「話し掛けられているようなスピーチで心にしみた」と振り返る。国際会議などで「ナガサキ」が通用していくのを感じたという。

 現委員は被爆者や被爆2世、核問題研究者、大学院生ら15人。報道機関に限ってきた傍聴も5年前に全ての市民に開かれた。市は宣言を市長が代表して読む「市民の声」と位置付ける。

 一方、広島は市民の関与の度合いが異なる。長崎の起草委に相当する、有識者による非公開の選定委員会(現在は懇談会)の設置は松井市長が就任した9年前。それまでは市が主体になって内容を決めてきた。歴代の市長もそれぞれに被爆者を含む市民の声を聞いてきた面はあるが、やはり「市長の個性」によるところが大きい。

 91年から2期8年、広島市長を務めた平岡敬氏(92)は宣言でアジア・太平洋地域での日本の植民地支配や戦争に言及し、「申し訳なく思う」との謝罪の文言を初めて盛り込んだ。平岡氏は、宣言には市長自身の歴史認識や世界観が反映されるとの考えを示した上で「最終的に市長が起草の責任を負う」と、その比重と責任の大きさを語る。

   ◇   ◇

 こうした両者の相違を、長崎の起草委メンバーの朝長万左男・日赤長崎原爆病院名誉院長(77)は「市長と市民が一緒に文章を練り上げるため、市民の意見も言葉もダイレクトに反映される。市長が中心の広島は、政治的な影響も受けるのではないか」と分析する。前出の平岡氏は原爆投下までの歴史や戦後の歩みが違うことも踏まえ、二つの被爆地の宣言を合わせて「被爆地全体の声だと世界は受け止める」と指摘。将来はこの宣言が「平和に対する思いを後世に語り継ぐメッセージになる」と語った。

(西日本新聞・徳増瑛子、中国新聞・新山京子)

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