「記憶を記録に」熊本空襲75年、元軍国少年が編む「あの日」

西日本新聞 熊本版 古川 努

記録誌刊行、新事実も

 太平洋戦争末期の熊本空襲の全体像を、資料と体験記で描いた1冊の記録誌が刊行される。「戦後75年 熊本空襲の実相を後世へ」。年表の細部にこだわり、新事実も書き加えられた。編集に携わった91歳の男性は語る。「記憶を記録にする。それが使命」。熊本の夜空が赤く染まったあの日から、1日で75年-。

 「記録をぴしゃっとするために、記憶を書き残していかにゃならん」。上村文男さん(91)=熊本市北区=がめくったページに、詳細な年表があった。

 昭和19(1944)年10月25日の欄に、こうある。「在中国B29100機、北九州・大村空襲」。他都市の空襲を記した理由はすぐに分かる。続けて「学徒動員中の御船中10人、宇土中2人、教師1人、大村で爆死」とある。

 翌年3月29日には「天草樋島が銃爆撃され死者7人(大人1人、小学生6人)」。この死者数は、上村さんが代表幹事を務める市民団体「平和憲法を活(い)かす熊本県民の会」が証言を頼りに掘り起こした。10年前に刊行した「戦後65年・熊本空襲を語り継ぐ」では判明していなかった新事実だ。

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 「日中に何をしていたかは覚えていない」。45年7月1日は日曜日。当時、旧制県立熊本中4年の16歳だった上村さんは「平日は学徒動員の作業。日曜は家庭修練の日だったから、家で勉強していたんじゃないかな…」と記憶をたどる。

 一家は熊本市大江(中央区)で両親と祖母、妹、そして祖母のめいと娘の7人暮らし。「午後8時か9時ごろ、父が『敵が来る』と言った。ラジオで聞いたんでしょう。サイレンも鳴っていた記憶がある」

 記憶にあるのは深夜の空襲警報、爆撃機のごう音、えい光弾のまぶしい光。「ヒュー」という音、夜空に赤い線を描く焼夷(しょうい)弾の雨。隣の家が燃え、父から掛けられた「行くぞ」という声。燃える熊本中の校舎。

 強烈に残っているのは学友の死だ。知ったのは2、3日後だったという。「白川小近くに住んでいた南関町出身の島永君。おばあさんを助けようとして焼夷弾の油をかぶり、火に包まれたそうです」

 年表の数字の裏に、大切な人の命を無差別に奪う戦争の理不尽さが隠れている。「10年前、一緒に年表を作った上田穣一先生(郷土史家)も、挿絵を描いた富田瑞穂さんも亡くなった。私もそろそろお迎えが来る。その前に記録誌ができて良かった」。焼け野原に立ち尽くし、平和を願った元軍国少年。記憶は薄れても、思いは風化していない。 (古川努)

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 「第12回熊本空襲を語り継ぐ集い」は1日午後1時半~4時、熊本市中央区手取本町のくまもと県民交流館パレアで開かれる。手記の朗読や新たな被災体験の証言、意見交換がある。参加費500円だが記録誌(1200円)購入者は無料。

【ワードBOX】熊本空襲

 最大の被害は1945年7月1日午後11時50分ごろから2日未明の空襲。平和憲法を活かす熊本県民の会によると、米爆撃機154機が襲来。同年8月10日にも大規模空襲があった。2度の空襲で下通や大江、新屋敷など市街地の3割が焼失。死者469人、被災者4万7598人。ほかに44年11月、同市花園町に爆弾が投下され死者2人。県内各地でも工場を中心に機銃や爆弾で攻撃された。

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