オーケストラの実験 神屋由紀子

西日本新聞 オピニオン面 神屋 由紀子

 音楽ホールでは見たことのない異様な風景だった。

 楽団員の大半はゴーグルやマスクを装着。息を吹き込んで鳴らす管楽器群の前はビニールシートで仕切っている。

 新型コロナウイルスの流行に伴い最後となった演奏会から3カ月余り。感染対策で奏者同士や指揮者との間隔も変えた。活動再開に向け、新日本フィルハーモニー交響楽団(東京)が医師立ち会いのもと行った確認の実験である。

 シューベルトの交響曲を演奏中、弦楽器奏者が一斉に楽譜をめくると、指揮者が棒を止めた。「譜めくりの音が目立つ」。弦楽器は通常2人で譜面台1台。この日は隣の奏者と間隔を取って1人1台にした分、音が大きくなった。

 チューバ協奏曲ではステージ後方の管楽器や打楽器の奏者に指揮者の指示が飛んだ。

 「ソロを聴きながら演奏すると、僕の所ではいつもより若干遅く聞こえる。こちらから早めに合図を出します」

 指揮者と奏者の距離を長めに取ったため、ごくわずかな音のずれが生じたのだ。

 奏者は互いの目を見合い、息遣いを聞きながらアンサンブルの密度を高める。だが、ゴーグルやマスクを着けると余計に集中力を要する。

 「人同士の距離を取ると難しい面もある。でも音楽を志す気持ちに距離はない」。協奏曲を指揮した下野竜也さん(鹿児島市出身)の実感だ。

 活動再開の模索は欧州で先行した。5月、ドイツ・ベルリンの主要オケと研究機関は声明を出し、楽器ごとの留意点など指針を示した。これに触発され、日本でも新日本フィルのような試演が相次ぐ。

 ドイツの声明を西南学院大神学部長の須藤伊知郎さんがいち早く翻訳した。学生オケの部長で「活動を始める基準に」と考えたのだ。再開へ踏み出すにも漠然とした不安を抱える人が多いためか、訳文は幅広く共有されている。

 コロナの流行当初、政府は「不要不急の集まり」の自粛を呼び掛けた。真っ先に対象と見なされたのが文化芸術だった。須藤さんは語る。

 「音楽は今日明日必要でなくとも人生を豊かにする」

 そんな確信があるから人々は静かに自粛を受け入れ、この数カ月、音楽の大切さに思いを巡らせたのではないか。

 新日本フィルはあす2日、定期演奏会に臨む。編成を小さくするため、プログラムは予定していたホルストの組曲「惑星」からベートーベンの交響曲第6番「田園」に変更した。結局、ゴーグルはなし、マスクも奏者の判断に任せるという。「あんな実験もしたね」と笑い合える日が来ることを切に願う。 (論説委員)

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