平野啓一郎 「本心」 連載第290回 第九章 本心

西日本新聞

 <あらすじ> 石川朔也はアバター・デザイナーのイフィーの下で働き、三好彩花と同居していた。三好に思いを寄せるイフィーは告白するが……。二人が抱える不安や葛藤を知る朔也は、三好に話し合うよう勧める。元同僚・岸谷の前財務大臣襲撃事件は共犯者三名が逮捕され大きく報道されていた。朔也は亡き母と深い間柄だった作家・藤原亮治を訪ね、隠されていた自分の出生の事実を知る。

  第九章 本心

 最初の会社を、体調を崩して辞めた後は、望ましい転職に恵まれなかったということまでは彼も把握していたが、最後は、旅館の下働きをしていたと言うと、声もなく、その事実を噛(か)み締めるように小さく何度か頷(うなず)いた。そして、やや空(うつ)ろな目で、窓から差し込む午後の光に目を遣(や)った。

 廊下を、職員たちが何かを話しながら通り過ぎていくのが聞こえた。

 その後、今住んでいる場所だとか、母との旅行のことだとかをしばらく喋(しゃべ)り、藤原の最近の生活のことも聞いた。僕は、少し気持ちが落ち着いてきたところで言った。

「……母は結局、僕に何も言わずに亡くなってしまいました。」

「急な事故だったんでしょう、最期は?」

「結果的には。でも、――本当は、安楽死を望んでいたんです。」

 藤原は、まるでたった今、母からその決意を聞かされたように驚き、すぐに理解を示すように頷いた。そして、天を仰ぐと、微(かす)かに声を漏らしながら嘆息した。

 それは、僕に対してこれまで見せていたのとは違う、もっと親密な、率直な表情で、恐らく、二十年も、彼の中に仕舞(しま)い込まれていた母向けの顔なのだった。

「ただ、……僕は反対しました。そのうちに、事故に遭って。……僕は今も、母がどうして安楽死を望んでいたのか、わからないんです。『もう十分』だと、母は言いました。だけど、一体、何が十分だったのか。……」

 僕は、そこまで言ったところで、先を続けられなくなってしまった。

 奇妙なことに、僕はこの時、本当に母の心境は、そんなに理解し難いのだろうかと、初めて感じていた。僕には、何がわからないのだろう? そう思うのは、母が隠していた出産に関する事実を知ったからなのか。

 それでも、僕は違和感を覚えながら続けた。

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