真夜中の召集令状 一軒一軒、戸をたたいて届ける 原爆を背負って(4)

西日本新聞

 長崎地方裁判所や法務局が並ぶ長崎市万才町。その一角の住友生命ビルが立つ場所に、長崎本博多郵便局がありました。1943年、14歳で勤め始めた私は、稲佐山中腹の家から300段の階段を下りて港まで行き、市営船に乗って通勤しました。

 戸惑ったのが、配達で使う自転車です。住んでいた場所が場所だから乗ったこともないし、背が小さかったのでまたいでも地面に足が届かない。ペダルに片足を乗せて思い切り踏み込み、飛び上がるようにしてこぎました。教えてくれたのは先輩のおばちゃん連中。男は兵隊に取られてほとんどいませんでした。

 1カ月ほどして不自由なく乗れるようになってからは、配達の仕事は楽しかった。配達範囲は徐々に広がり、市中心部のほか、軍需工場が並ぶ浦上地区、その先の郊外まで行くようになりました。とにかくいろんなところを走った。道なき道を山の上まで自転車を担いで上がり、下りるときは横倒しにした自転車にひもを付けて、自転車だけ先に滑らせて下ろす。浅い川や坂道の階段もそのまま自転車で駆け抜けました。スピードを出すのが好きだった私は、配達先の子どもや同僚の間で「飛ばし屋」として評判でした。

長崎本博多郵便局で働き始めたころの私

 配達物の中には、「特急電報」と呼ばれる特殊な電報がありました。軍から発せられる軍需工場宛ての秘密文書で、受けてから15分以内に届けないといけない。これが、私が当直のときに限ってよく来るのです。

 ある夜、郵便局から一番離れた三菱兵器製作所大橋工場宛ての特急電報が届きました。自転車で向かう途中、不安が頭をよぎった。工場の手前の家で飼われている2匹のシェパードが、夜は放し飼いにされているのを知っていたからです。案の定、犬は私を追い掛けてきました。捕まったらひどい目に遭うから、こっちも必死です。全速力で工場に逃げ込みました。無事だったのは良かったのですが、敬礼をし忘れて、守衛にこっぴどく叱られました。

 大戦末期になると、召集令状が深夜に電報で届くこともありました。入隊する日付と部隊名が書かれた何十人分もの電報を持ち、一軒一軒戸をたたいて回ります。私も、受け取る方も無言でした。こんな遅くに召集令状が届くなんて…。朝日を浴びて局に帰りながら日本の行く末に不安を抱きました。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募っています。クラウドファンディングへの参加はこちらから

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