運命の8月9日、午前11時2分 原爆を背負って(5)

 初めて米軍の爆撃に遭った1944年8月11日以降、長崎市は終戦までに5回の空襲を受けました。警戒警報、空襲警報の発令は日を追うごとに増え、すっかり慣れっこでしたが、大変なこともあった。空襲警報が出れば、夜中でも郵便物を守るために、勤め先の長崎本博多郵便局に戻らないといけなかったからです。

 前にも話しましたが、私は稲佐山の麓から市営船に乗って通勤していました。空襲警報が解除になったときには、夜が更けて船がないことが何度もありました。今でこそJR長崎駅近くに旭大橋が架かっていますが、当時は船がないと帰れない。そのたびに局に泊まりました。

 45年8月8日夜も、空襲警報の関係で局に泊まり。翌日は午後から電報配達の仕事でしたが、先輩に頼まれて朝の郵便配達と交代しました。本博多郵便局は爆心地から約3キロ。原爆投下の数時間後に起きた火災で全焼したものの、被害は少なかった。先輩と代わっていなければ、私は局にいて無事だったはずです。

1945年8月9日、長崎の空に上がったきのこ雲。この雲の下で何万もの人が死んだ

 9日早朝、タガばあさんが朝と昼の弁当を届けてくれました。空襲が相次いでいたため、真っすぐ家に帰るように伝えて別れましたが、まさか再会が3年7カ月後になるなんてこのときは思ってもみなかった。2食分の弁当をかきこみ、午前9時に配達に出ました。浦上の工場地帯を抜け西浦上郵便局の手前で自転車がパンク。修理を終えて局を後にするとき、時計の針が午前11時を指しているのが見えました。

 100メートルほど走ると、後ろから飛行機の爆音が聞こえました。朝から発令された空襲警報は解除されていました。不思議に思い、振り向こうとした瞬間でした。目のくらむような閃光(せんこう)。左後方からドンっと来て、自転車ごと数メートル飛ばされました。何が起こったか全く分からない。地震のようにごうごうと揺れる地面に、必死にへばりつきました。

 顔を上げると、いつもあいさつを交わす子ども2人がほこりのように飛ばされていた。直径30センチほどの石が飛んできて、私の腰を直撃しました。弱気になる自分を「死んでたまるか」と励まし、じっと耐えた。

 1945年8月9日午前11時2分。16歳の私は、爆心地から1・8キロ地点で被爆しました。今も続く長い長い苦しみの始まりでした。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募っています。クラウドファンディングへの参加はこちらから

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