守り抜いた郵便物 局長さんは浴衣をかけてくれた 原爆を背負って(7)

西日本新聞

 周囲のうめき声は、時間がたつにつれて聞こえなくなりました。はいていたズボンと巻脚半、地下足袋を丸めて枕代わりにし、丘の上でうつぶせのままうなっていました。

 午後2時ごろだったと思います。救援列車が来て、「動ける者は下りてこい」と叫ぶのが聞こえました。身動きの取れない私を尻目に、歩ける人は線路に向かって下りていく。でも、原爆で負傷しているから途中でばたばたと倒れ、そのまま力尽きる人が何人もいました。

 とにかくのどがカラカラでした。ふと見ると、手が届きそうなところに緑色の柿がなっています。何とか立ち上がって枝をつかむと、バランスを崩して転倒。竹の切り株が右股関節付近に刺さりました。後で腫れて腐りましたが、このときは痛みを感じず、転がり落ちた実を拾い、かぶりつきました。渋かったぁ。

 9日夜、米軍の戦闘機が山の斜面に沿って機銃掃射し、私の横の岩に弾が当たりました。これだけのことをしておいてまだやるのかと、心の底から怒りを覚えました。眼下に広がる町は火の海。まさに地獄です。ばあさんやじいさんは無事だろうか。安否が気掛かりでした。

全壊、全焼した三菱長崎造船所大橋部品工場(三菱重工業長崎造船所提供)

 夜が明けると、救護の人が山の下でおにぎりやお茶を配っていましたが、私のところまでは来ません。水が飲みたかった私は、近くの農家に向かいました。7~8メートルの斜面を腹ばいで下り、炊事場の水がめからひしゃくを使って思い切り飲んだ。ひと息つくと、家が爆風で傾いていることが分かりました。下敷きになるのを恐れ、玄関前の木の根まではい出た後、意識を失いました。

 起こされなかったら、いつまでも寝ていたと思います。丸めて枕にしていたズボンと巻脚半を男の人が引っ張り、盗もうとしている。気付いた私は必死にしがみつきました。ズボンのポケットには大事な書留が入っていたからです。「これだけは取ってくれるな」と声を振り絞り、郵便物だけは守りました。

 3日目の朝、警防団の人に救助され、戸板に乗せられて運ばれました。途中、岩屋郵便局に寄ってもらい、郵便物を渡すことができました。局長さんは黙って、黒焦げの背中に浴衣を掛けてくれました。無事届けられた安堵(あんど)感から力が抜けていくのを感じました。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募っています。クラウドファンディングへの参加はこちらから

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