豪傑先生と私 原爆を背負って(15)

西日本新聞

 虹波(こうは)の服用で体の状態が良くなると、うつぶせのまま足を動かすようになりました。リハビリのつもりはなかったけど、何もすることはないしね。そうやって毎日を過ごしていた。1947年5月、ふと起きられそうな気がしたのです。体をずらして足をベッドから下ろし、じいさんの手を借りて立ち上がりました。

 1年9カ月間、寝たきりだったから、起き上がった瞬間に血液が足元まで流れました。自分の足がどこにあるのか分からないくらいじんじん痛み、頭もぐらぐらしました。落ち着いてから「やっと動けるようになったなぁ」としみじみ思いました。先生も看護婦さんもみな喜び、じいさんは目が潤んでいました。

 驚いたのは身長が30センチ以上伸びていたこと。育ち盛りとはいえ、死にかけで食事もそんなに取れていなかったのに不思議です。つえをついて少しずつ歩くようになった私を見て安心したのか、付きっきりだったじいさんは家に帰っていきました。

大村海軍病院で治療を受ける私の映像を見る浅尾学先生

 時間がたつにつれ、病棟の外に出る回数も増えました。覚えているのは48年4月から退院までの1年間を担当してくれた麻生学先生のこと。九州大学から来た先生で、円盤投げの国体選手。とにかく豪傑だった。病院の下にあった池の水をたらいで全部すくい上げ、大ウナギを捕っていました。飯ごうでご飯を炊いて、おいしそうに食べていたなぁ。

 先生には左腕の手術をしてもらいました。熱線で焼かれ骨がむき出しになった腕は、曲げた状態で固まり、90度以上伸びなくなっていた。癒着をメスで切り、右太ももの皮膚を移植しました。元通りとはいきませんが、110度まで伸ばせるようになりました。今もこのままです。

 先生とは2006年に再会することになります。私を特集したテレビ番組を見て、放送局を通して連絡をくれたのです。麻生先生のことは随分と捜したのですが、見つかりませんでした。もう亡くなっていると思っていたら、婿養子に入って名字が「浅尾」になっていました。

 再会した先生は、私が生きていたことに感動しきり。映画や劇団の舞台を病院で鑑賞した思い出を語り合いました。ドイツ語で書かれたカルテは、このとき先生に頼んで翻訳してもらいました。先生は今91歳。大分の湯布院で奥さんと元気に暮らしています。(聞き手 久知邦)

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 「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が長崎原爆の日の8月9日、米国で発行されます。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募っています。クラウドファンディングへの参加はこちらから

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