平野啓一郎 「本心」 連載第295回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

「あのあと、イフィーと話し合って、つきあうことになったの。それで、色々お世話になったけど、明日、彼の家に引っ越そうと思ってて。荷物もほとんどないし、彼が大型のタクシー、手配してくれたから、ひとまずそれにスーツケースを積んで。」

 僕はここ数日、彼女がいつ、この話を切り出すのだろうかと考えていたので、決断自体に驚きはなかった。しかし、室内の静寂は、明日からまた独りになるということを、無愛想な役所の窓口のように説明して、その寂しさを予告した。

「良かったです。そうすべきだと思ってましたので。荷物は、僕も手伝います。運びきれなかった分は、あとから僕が持って行ってもいいですし。」

「ありがとう。朔也(さくや)君に助けてもらって、本当に救われたし、感謝してます。」

「こちらこそ。短い時間でしたけど、僕も楽しかったです。」

 僕たちは、お互いにぎこちなく微笑(ほほえ)んだ。僕は、ただ沈黙を厭(いと)う気持ちからだけ発する次の言葉が、間違いなく余計な一言となる気がして、自室に戻ろうとした。三好は、それに慌てたように、

「結局、わたしの過去については、まだイフィーに話せてないままなの。」

 と言った。僕は、既に立ち上がってしまっていて、彼女を見下ろすような自分の目の高さを持て余した。

「それは、……いつか話せる時が来れば、でいいんじゃないですか? 今の三好さんを、彼も好きになったわけですし。言いたくなければ、一生、黙っててもいいと思います。」

「……うん。疚(やま)しい気持ちは、やっぱりどっかで、あるんだけど。」

 彼女は、少し安心したように言った。僕は、何故(なぜ)そんなことを、わざわざ今、口にしたのかを考えた。そして、彼女はやはり、遠回しに、僕が秘密を守ることを確認せずにはいられなかったのではないかと感じた。つまり、口止めだった。それは流石(さすが)に、穿(うが)った見方だろうか。彼女が僕という人間を、全面的には信じきれずにいると思えば、悲しくもあったが、しかし、その心情を僕は察することが出来た。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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